これは、ファンタジックな設定に思えるかもしれない。ただ、江戸時代初期に成立した『当代記』には、桶狭間へ出陣する直前、本書でも重要な役で登場する今川義元(いまがわよしもと)の夢に、家督争いの末に自刃に追い込んだ異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)が現れ、出陣を止めたとのエピソードが記されている。戦国時代の日本は、科学と合理主義が迷信を駆逐した現代とは異なり、多くの人が怨霊を恐れたり、特殊な能力を持った人間が生まれたりすることを信じていた。著者は、このような文化的な背景を踏まえ、香が超能力者だったという物語を紡いでいるので、決して史料を無視しているわけではないのだ。
このほかにも著者は、戦国武将に好まれた連歌が、単に教養を身に付ける手段ではなく、多くの人間が集まっても怪しまれないため、会合を開く方便に使われていた事実を指摘するなど、丹念な考証で戦国の小豪族・井伊家の生き残り戦略を活写しているので、圧倒的なリアリティがある。香に「鎧は重いか」と聞かれた幼い頃の虎松(とらまつ/後の直政)が、「重うありませぬ!」と返す場面は、直政が重い鎧兜を着て合戦に臨んだことを知っている歴史好きは、思わず唸ってしまうのではないだろうか。
かつては名門だった井伊家も、戦国時代に入ると駿河の太守・今川家の支配下に入るほど零落していた。香が生まれた頃には、代々井伊家の家老を務めている小野(おの)家の当主・和泉守政直(いずみのかみまさなお)が、今川家との関係を深め、主家よりも今川家の意向に沿った政治を行うようになっていた。そのため香は、父の叔父で側近でもあった直満(なおみつ)と直義(なおよし)が、和泉守の讒言(ざんげん)で謀反の疑いをかけられ切腹、直満の子で許婚の亀乃丞(かめのじょう)が亡命を余儀なくされた悲劇を皮切りに、井伊家を陥れる政治的な謀略の渦に巻き込まれていく。
和泉守が、息子の政次(まさつぐ)と香を結婚させ、井伊家の乗っ取りを目論んでいると知った香は、危機を避けるため出家する。井伊家を存続させるため、香が政次と繰り広げる謀略戦は、コンゲーム(騙し合い)テーマのミステリとしても楽しめるだろう。
一族に危機が訪れるたび、不吉な黒い影を目にする香だが、それを押し止める政治力は限られているため、より苦悩を深める。人より優れた能力を持つ香が、人より多くの苦しみを背負う展開は、“超能力者の哀しみ”を描く一種のSFとしても秀逸である。
タイトルにある「剣」と「紅」は、一見すると男性と女性を象徴しているように思える。ただ戦国時代の「紅」は、女性を美しく飾ると同時に、戦場で討たれ、首だけになった男に死化粧をするためにも使われていた。女たちが武将の首に死化粧をしていた実態は、石田三成(いしだみつなり)に仕えた山田去暦(やまだきょれき)の娘が晩年に記した『おあむ物語』に詳しい。
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