書評

『トッカン』高殿円が初挑戦、本格歴史小説

文: 末國 善己 (文芸評論家)

『剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎』 (高殿円 著)

 著者は、男と女でまったく異なる使われ方をした「紅」を効果的に使い、否応なく「紅」を捨て、弱肉強食の「剣」の世界で生きることを迫られた香の運命の変転をより印象深くしている。だからこそ、香が決意を込めて「剣」を握る場面、香が「紅」に親しんでこなかったことを悔やむシーン、そして巻頭にある「――生涯、ただ一度の紅であったと伝えられる」の意味が分かるラストには、深い感動がある。

 化粧が苦手な香と対照的なのが、落ち延びた亀乃丞に想いを寄せるきぬの存在である。自分の美しさを知り、「紅」を自作するほど化粧にも熟達しているきぬは、亀乃丞と夫婦同然の関係になる。だが、すぐに井伊家の家督を継ぐことが決まった亀乃丞と引き裂かれてしまう。その意味で、きぬは香と同様、男たちが決めた戦国のルールに人生を翻弄された女性といえる。結婚、出産の機会を奪われた香と、結婚の先に奈落を経験したきぬは、いわば表裏の関係にあるヒロインなのである。

 戦国を生きた女性と聞くと、政略の道具に利用された不幸な女性を思い浮かべるかもしれない。ただ実際には、作中にも指摘のある今川義元の母・寿桂尼(じゅけいに)のように、自身の印判を捺した公文書を発行するなど政治の第一線で活躍した女性も少なくない。

 井伊家を守るため、香は「女地頭」になるが、寿桂尼などと比べると、その活躍は派手ではない。だが香は、寿桂尼のように有力武将と結婚したり、有力武将を生んだりして力を得たのではない。ささやかではあるが、男が決めたルールに従うのではなく、自分の判断で生き方を決め、自らの力で人生を切り開いている。

 現代社会は、法律的には男女が同権になったとはいえ、就職では一人暮らしは不利との噂が根強く、結婚では改姓の手続きをする必要に迫られ、出産では長期の休養と復帰の苦労があるなど、人生の転機になると女性だけが負担を強いられる暗黙のルールは数多く残されている。男性がイメージする――というよりも押し付けている“結婚、出産が女の幸せ”に背を向け、故郷の独立と領民の幸福を守るという職責に生き甲斐を見出す数奇な人生を歩んだ香は、いまだ男性優位の社会で懸命に生きている現代女性へのエールになっているのである。それだけに、香が、井伊家の取り潰しを画策する今川家、小野家としたたかに渡りあう終盤は、痛快に思えるのではないだろうか。

 ただ本書は、女性読者に向けて書かれただけではない。著者は、乱世の競争を勝ち抜きたいという強烈な上昇志向を持つ新田喜斎(にったきさい)や、諸行無常を描く能『敦盛』を巧みに使って、出世や金儲けは人を幸福にするのかを問い掛けているのだ。何より、名前の由来になった「非時香菓」のように、井伊家を存続させるためにあらゆる苦労を背負った香の姿は、絶望せず生きることの大切さを教え、戦国時代と同じく厳しい競争にさらされている現代人に、勇気と希望を与えてくれるのである。

剣と紅 戦国の女領主・井伊直虎
高殿円・著

定価:本体820円+税 発売日:2015年05月08日

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