『抽象と感情移入』
本書『ゴシック美術形式論』はもちろん完結した著作であり、ヴォリンガーが最初の数章をかけて理論的前提から書き起こしているため、単体で読むことができる。だが、以上概観したように、「非古典主義の美術史」とでも言うべき大枠を踏まえるならば、本書は『抽象と感情移入』の続編という性格を併せ持ち、両書は密接に関わっている。よって以下、『抽象と感情移入』の理論的前提にも簡単に触れつつ、両書の要点を概観してみたい。
ヴォリンガーは、リップスの感情移入学説のテーゼを、「美的享受は客観化された自己享受である」(岩波文庫『抽象と感情移入』一八ページ、以下一部表記を変更)とまとめている。言い換えるなら、美的享受とは「私とは異なったある感覚的対象のうちにおいて私自身を享受すること、すなわちかかる対象のうちへ私自身を移入することに他ならない」というのだ。感情移入学説すなわち「客観化された自己享受」の主な問題点は、およそ美的享受がこのようなものである限り、「私」の外にある他者を、あくまでも「私」と類比的なものと判断し、そこに同化していくほかないということだ[6]。
感情移入の観点から古典美のみを認めるリップス美学の一面性を批判しつつ、ヴォリンガーは『抽象と感情移入』の第一章で「感情移入衝動 Einfühlungsdrang」と「抽象衝動Abstraktionsdrang」という両極的な二種類の「衝動 Drang」を導入している。心理学的記述の豊富さは、副題が「様式心理学への寄与 ein Beitrag zur Stilpsychologie」であることを考えると納得がいく[7]。とりわけ衝動という語の選択に、リーグルの「芸術意志」理論の先鋭化をみることができるだろう。選択の余地を残すかのようにみえる「意志」とは異なり、衝動とは「やむなく何かに衝き動かされてしまうこと」であり、一種の不可避性を伴っているからだ。
感情移入衝動は、あくまでも人間と外界の現象との関係が調和的で、かつ幸福感とともに美しい有機的自然へと「自己を移し入れる」ことができるような環境にのみあてはまる。ヴォリンガーはこの衝動を、ギリシア・ローマからルネサンスを経て印象派に至る、広義の「自然主義」と関連付けている。
このように、いわば万物のうちに神をみる汎神論的かつ「内在」的な自然観が成り立つ環境とは異なり、人間が過酷な自然に打ちひしがれてしまう環境下では宥和的な自然観を抱くことは不可能であり、抽象衝動のもとでは「超越」への志向が主調となるだろう。「感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生れた結果である。またそれは宗教的な関係においては、あらゆる観念の強い超越的な調子に一致するものである。吾々はこのような状態を異常な精神的空間恐怖と呼びたい」(『抽象と感情移入』三三ページ)
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