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ヴォリンガーの「ゴシック」とその現在(前編)

ヴォリンガーの「ゴシック」とその現在(前編)

文:石岡 良治 (批評家・表象文化論)

『ゴシック美術形式論』 (ウィルヘルム・ヴォリンガー 著/中野勇 訳)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

「空間恐怖 horror vacui」はリーグルの装飾論において、モチーフが隙間なくびっしりと充填されていく執拗さを形容する語であったが、ヴォリンガーはこれを「精神的空間恐怖 geistige Raumscheu」と読み替え、自身の衝動理論と結びつける。そして抽象衝動が生みだした範例として、古代エジプトのピラミッドのような幾何学的形態を挙げる。「彼ら(筆者注:原始民族)が芸術のうちに索(もと)めた幸福感の可能性は、自己を外界の物に沈潜し、物において自己を味うということではなくして、外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出すことであった」(『抽象と感情移入』三五ページ)

 こうして、幾何学的形態が典型的であるが、流麗な有機的「自然主義」の観点から見ると生気に乏しくぎこちなく映る原始美術や東洋美術の様々な「様式」を、ヴォリンガーは「抽象衝動」の所産として位置付ける(第二章「自然主義と様式」)。それだけではない。芸術のはじまりに幸福感ではなく「不安」を見出すことで、あらゆる芸術活動の根底に「自己抛棄(ほうき)の衝動」があるのではないかという示唆にすら至るのである。抽象衝動が強烈な自己抛棄と結びつく一方で、幸福感に満ちた美的享受にすら「我を忘れる」という自己抛棄がみられるからだ(『抽象と感情移入』四三~四五ページ)。ここには彼がショーペンハウアー哲学から得たペシミスティックな認識が反響している。

 以下ヴォリンガーは、流麗な文体を駆使して「感情移入衝動」と「抽象衝動」という二種類の衝動が繰り広げるドラマを描き出す。しかし直ちに、「抽象」と「感情移入」は果たして排他的なのだろうか? という問いが生じるだろう。現在でもこうした観点からのヴォリンガー批判がときに散見されるが、すでに見たように、二つの衝動は自己抛棄という共通の根をもっている。さらにそのような心理学的側面だけではなく、考察される芸術形式に関しても、二つの衝動の関係についての疑問をあらかじめ先取りするかのように、ヴォリンガーは注記で「われわれが今日ピラミッドの形式へも感情移入を行うことができるという事実」「抽象的形式への感情移入の可能性」(『抽象と感情移入』三二ページ)という問いを立てている。

[1] 原題 Abstraktion und Einfühlung、一九〇七年に学位論文として提出され、一九〇八年に書籍として刊行。日本語訳は岩波文庫より一九五三年に「ヴォリンゲル」表記にて草薙正夫訳『抽象と感情移入』として刊行。

[2] ヴォリンガー自身による説明として、一九四八年に書かれた「『抽象と感情移入』新版への序文」を参照。日本語訳は『問いと反問』土肥美夫訳、法政大学出版局、一九七一年、二六~三三ページ(原題 Fragen und Gegenfragen、一九五六年刊行のヴォリンガー七十五歳誕生記念出版、日本語版はこの序文を含め所収論考が一部異なっている)。

[3] 原題 Stilfragen、一八九三年に刊行され、日本語訳は一九七〇年に岩崎美術社から「美術名著選書 11」、長広敏雄訳『リーグル美術様式論』として刊行。

[4] 原題 Spätrömische Kunstindustrie、一九〇一年に刊行、日本語訳は二〇〇七年に中央公論美術出版から井面信行訳『末期ローマの美術工芸』として刊行。

[5] 原題 Das holländische Gruppenporträt、一九〇二年に刊行、日本語訳は二〇〇七年に中央公論美術出版から勝國興訳『オランダ集団肖像画』として刊行。

[6] しかしながら、感情移入(EinfühlungあるいはEmpathy)は自己と対象の「隔たり」を前提とした移入作用であり、「自己を移し入れること」の問題系を「他者の同化」とは別様に考察していくこともできるだろう。この点に関しては、ロベルト・フィッシャーに始まる感情移入概念の系譜をたどり、ヴォリンガーのリップス批判を再検討した以下の論考が示唆的である。Juliet Koss, “On the Limits of Empathy”, The Art Bulletin, Vol. 88, No. 1 (Mar., 2006), pp. 139-157.

[7] ヴォリンガーの著作のこうした側面は、現在では作品の形式分析から逸脱する心理主義として抵抗を引き起こすか、あるいは現代の認知科学的な観点から関心をもたれるかのいずれかではないだろうか。ヴォリンガーの「心理主義」は、心理学的色彩が強いハインリヒ・ヴェルフリンの初期著作から触発されていることが指摘されなければならない。『抽象と感情移入』で引用されているヴェルフリンの『建築心理学序説』(原題 Prolegomena zu einer Psychologie der Architektur、一八八六年刊の博士論文、日本語版は一九八八年に中央公論美術出版から上松佑二訳で刊行)や『ルネサンスとバロック』(原題 Renaissance und Barock、一八八八年刊、日本語版は一九九三年に中央公論美術出版から上松佑二訳で刊行)などの初期著作を、本書より後に刊行され、形式分析による比較様式論の古典として知られるヴェルフリンの主著『美術史の基礎概念』(原題 Kunstgeschichtliche Grundbegriffe、一九一五年刊、日本語版は二〇〇〇年に慶應義塾大学出版会から海津忠雄訳で刊行)と比較すると、ヴォリンガーが影響を受けたのは、ヴェルフリンの初期著作であることは明らかである。


後編へ続く

ゴシック美術形式論
ウィルヘルム・ヴォリンガー・著/中野勇・訳

定価:本体1,210円+税 発売日:2016年02月19日

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