小説作品であれ、小説論であれ、高橋源一郎の文章が読んで快い理由のひとつは、無臭感とでもいうべきものが浸透しているからだと思う。物でも概念でも、作者自身の愛着や嫌悪をいったんすべて排し、たとえば「文学」とか「小説」とか、ついプラスの価値が付加されてしまいがちなものの価値もぜんぜん自明視しない地点から書く。この本のメインタイトルが「日本の小説」ではなく「ニッポンの小説」になっているのも、「日本の小説」にまとわりついてきたこれまでの通念をひとまず全部疑うところからはじめようという姿勢の表れだろう。
それで『ニッポンの小説』であるが、読み終えると、たしかにニッポンの小説についての話を読んだ気もするのだが、なんだかもう少し違う話を読んだような気もする。だからこそこれは素晴らしいニッポンの小説論なのだと思う。ニッポンの小説について考えることが、必然的に、ニッポンの小説よりもずっと大きな問題を考えることにつながっているからだ。そしてその大きな問題とは、ひとまず言葉の問題、言葉を通してどう世界とかかわるかという問題といっていいと思う。はじめの方で、高橋源一郎はこう書く――
「しかし、わたしは、ひとりの小説家として、心の底では小説以上に素晴らしいものはこの世界には存在していないと思うが故に、逆に、小説というものを、それほどまでに熱心に読む必要はないと考えているのです。
いや、小説というものは、熱心に読むことによって、実は、その可能性や豊穣さを失っていくという奇妙な性質を持っている、といいたいのです。
なぜなら──まず、世界が存在しているからです。あるいは、小説にとっての「外部」が。そして、その世界を、「外部」を読み解くために、小説が存在しているのであって、小説を、あるいはテキストを読むために、世界が存在しているのではない。そう、わたしはいいたいのです」
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