おりんは、身に染みついた京都の伝統文化と一緒に、新開地の江戸に下ってきた。彼女の心の分身が、母の形見である「薄墨桜」の打掛(うちかけ)と、父の形見である更紗(さらさ)「鼠地鳥獣唐草文様(ねずみじちょうじゅうからくさもんよう)」である。母親が体現していた和歌的な日本文化と、父親が体現していた外国(南蛮渡来)の異文化を積極的に受け入れる価値観。その両方が、おりんの体内を流れる血液のDNAを形成した。
右衛門佐も、清閑寺家の姫(熙子)も、そして両親を亡くしたおりんも、新しい文化を作りあげるために、江戸で戦っている。おりんにとって、「薄墨桜」の打掛は、母親の形見であると同時に、大きな悲恋の痛手から立ち直ろうとする熙子との、身分の垣根を越えた真実の友情の証しにもなっている。読者はどうして、彼女たちを応援せずにいられよう。
江戸で暮らし始めたおりんの周りには、個性的な人物たちが集まってくる。おりんの魅力的な人柄が、異色のキャラクターたちを引き寄せるのだ。
越後屋の当主で、おりんの形見の「薄墨桜」の打掛を預かっている三井八郎兵衛(みつい・はちろべえ)。その用心棒で、一度は身投げしようとまで思い詰めたおりんを救った桜木蓮次(さくらぎ・れんじ)。物知りで、老賢人の雰囲気の漂う文作。腕のよい人形職人の葦月(よしづき)。旗本の家に生まれ、大奥で針の仕事に人生を捧げた老女・杉下初音(はつね)。
さらには、当てにならない叔父(父親の弟)だったが、姪のおりんに導かれて少しずつ男らしさを取り戻してゆく善次郎。善次郎の妻で、気立てはよいが体の弱いおせん。善次郎夫婦とおりんの暮らす今戸の長屋の人々。……
おりんの父親に仕えていて、今は越後屋で奉公し、おりんを守り続ける末続(すえつぎ)。おりんの成長を見守ってくれる末続と桜木蓮次だが、はたしてこれが三角関係になってしまう危険性はないのか。三人の恋の行方からも、目が離せない。
緊張感をはらんだスリリングな時代背景と、魅力的な登場人物たち。逆境の中だからこそ、人間の心根は鍛えられる。そこに、成長と発展の可能性がある。登場人物も、時代も、文化・文明も、「今、ここ」での暮らしを一里塚のように愛(いと)おしむことで、成長への道を歩き出す。
篠綾子は、歴史小説のスタイルで歴史を上空から鳥瞰(ちょうかん)する視点を取らない。おりんが「端切(はぎ)れ雛(びな)」を作り、「ほかほか足袋(たび)」を考案し、越後屋での壮絶ないじめに耐えて「針吸石(はりすいいし)」(磁石)を譲られるという、庶民の着実な暮らしの積み重ねが、元禄時代を生きる人間の本質を照らし出す。
一話完結の短編読みきり形式の集合体が、「生きられた歴史」としての人間の営みを記録し、読者に感動を与え、記憶される。これが、時代小説の本道である。篠綾子は、今、この王道の第一歩を、本書の書き下ろしによって歩き出したのだ。
何と言っても、この作品の成功は、おりんというヒロインにある。おりんは、呉服商の娘であり、父の死によって消滅した店を再建し、女主人として切り盛りする覚悟を固めつつある。そのために、自ら針を持ち、裁縫に従事する。
衣服は、人間の生活に無くてはならない「衣食住」の筆頭である。我が国には、人々に養蚕技術を教えた織姫に関する神話や伝説が多く伝わっている。また、『源氏物語』のヒロインである紫の上も、染色と裁縫の才能に恵まれていた。中国にも、七夕伝説があるし、ゲーテの『ファウスト』にも「糸を紡ぐグレートヒェン」という名場面がある。
女たちが糸を紡ぎ、見事な文様を浮かび上がらせる。それは、歴史の女神が悲しみと喜びに満ちた人間悲劇と人間喜劇を「歴史絵巻」として織り成す営みと対応している。おりんは、華麗な「元禄絵巻」の中に織り込められている文様の一つでありながら、元禄絵巻を織り上げた歴史の女神の意志をはっきりと読み取ることができる。そこまで、おりんは成長するだろう。してほしい。
本書を読む読者もまた、歴史を変革する何物かの意志を理解できるようになる。そうすれば、激動する世界情勢に翻弄されて押し流されるだけで終わらず、歴史の激流の上に見事に乗って棹さし、歴史と共に駆け抜ける快感と充足感を感じることができるだろう。
そのためには、他人の抱えている哀しみや痛みに共感できる心の優しさが必要である。そのことを、作者は次の和歌に託して、読者に訴えている。
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲け
「し」は、「大和“し”うるわし」「撃ちて“し”止まむ」の「し」と同じで、強調を表す。「毎年美しい色で咲いて、私の目を喜ばせてくれる桜よ。愛する人が亡くなった今年という今年だけは、どうかお願いだから、喪服と同じ墨染の色に咲いておくれ。そして、あの人を喪った私と一緒に、悲しんでくれないか」。
生きることの痛みと悲しみを知ることで、おりんも、周囲の人々も、そして日本文化も、成長してゆく。おりんのこれからに、目が離せない。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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