筆者が北原さんと初めて会ったのは、昭和五十六年の春で、今で言う異業種交流会のような不思議な集まりであった。不動産関係の人、コーヒー販売業の人、スポーツ関係の人ら七、八人の中にひっそりと北原さんがいた。小説新潮で淡い短編を読んだ記憶がある程度だったが、北原亞以子という美しい名前に魅かれ、どんな人だろうと出掛けたのを覚えている。週刊文春に在籍していた時なので小説の原稿云々の話もなく、後で知ることになるが、北原さん自身も「水中に転げ落ちてもがき続けている」時期のことだった。だが幸運にも直後に文芸誌に異動になり、担当編集者としての付き合いが始まる。
ほどなく北原さんは二十年のスランプを抜け出した。そして泉鏡花賞受賞で自信をつけ、いよいよ平成二年後半に「恋知らず」をオール讀物で書き始め、ほぼ二年かけて「恋忘れ草」の六編が揃うのである。
作家が自信をつけ、どんどん大きくなっていくことを、業界では「化ける」「化けた」というが、北原さんはニコニコしながら確実に化けていった。
高橋三千綱氏は同人雑誌仲間で、年齢は十も下だが北原さんのデビューの頃からの友人である。その三千綱氏が対談の中で、北原さんを「随分欲が深い人だなァと思った」と発言している。小説新潮という発表の場があるのに同人誌にも顔を出す。三千綱氏たち四、五人で「一の会」をつくり、一升酒を飲んでいたという。同時期に、「石の会」という有馬頼義(よりちか)氏が主宰する、三浦哲郎、高井有一、五木寛之、渡辺淳一、色川武大氏ら錚々(そうそう)たるメンバーの会にも誘われて顔を出す北原さんをそう評している。
確かに、初めてお目にかかった会もそうだし、陶芸家の神谷紀雄氏のお宅で作陶をする「和光会」、その名もずばり「時代小説研究会」、「旅行の会」、同じ頃に直木賞を受賞した村松友視、伊集院静、出久根達郎、西木正明、山口洋子氏の六人で競作したりした「文六会」などなど、北原さんの周囲には編集者、作家ばかりじゃない大勢の友人たちが集まっていた。
さらにいえば、小説に対して、原稿に対して貪欲であった。原稿が早い方ではないことは自覚してエッセイにも書いているが、ゲラになってからがまた凄い直しの量である。まっ赤なゲラは北原さんの代名詞のようだった。
一メートル五〇センチ、四〇キロの小柄な身体に心臓の持病を抱えながら、粘りに粘るのである。
編集者として構成の面で実感したのは「恋忘れ草」の書籍化のときである。最後の「萌えいずる時」を執筆する前に、この連作はロンド形式にすれば面白いかもしれない、というアイディアが浮かび、それに添って前五編の順番を替え、大幅に加筆訂正したのである。
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