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父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで

父の遺品――『沈黙のひと』が生まれるまで

小池 真理子 (作家)

パーキンソン病で苦しんだ父。施設に遺されたダンボール箱から――

出典 : #文藝春秋

父との最後の別れ

 私は窓辺に引きずっていった丸椅子に腰をおろし、父の冷たい手を両手でくるんでやりながら、ぽつりぽつりと思いつくまま、昔の話を始めた。

 幼かったころ、自分たち家族が暮らしていた小さな社宅の話。路地沿いに建っていた社宅の近所に、猫好きの太ったおばさんがいたこと。夕方になると、おばさんの家からは野良猫たちのために煮つけてやる魚の、いいにおいが漂ってきたこと。私の小学校時代、「まれにみる人格者だ」として父がほめちぎっていた担任教師の話。父と母、妹と四人で、夏休みに那須高原のホテルに泊まりに行った時の話。私が習っていたピアノの話。父もよく知っている、私の昔の友人たちの話……。

 埒もない思い出話ばかりだったが、ひとたび語り始めると楽しくて止まらなくなる。幼いころの記憶には、苦しみも悲しみもなく、どれをとってみても淡雪のようにやさしくて、遥かな時間の向こうに再現されてくるのは、ただ、ただ、ありふれた、しかし、懐かしくて心あたたまる、幸福な風景ばかり。

 日曜日ごとに、小さな社宅の茶の間で観ていたテレビの「シャボン玉ホリデー」、夕方になると路地に響きわたっていた豆腐屋のラッパの音、父が会社帰りに、駅前の八百屋で買ってきてくれた大きなスイカ、東京で雪が積もるたびに母が作ってくれた雪うさぎ、そのうさぎの目は赤い南天の実だったこと……どんなことでも、どんなに些細な風景でも、それらは自分たちの過ぎてきた時間の中に静かに織りこまれていて、いくら話しても話し足りない。尽きることがない。

 私がしゃべり、父は聞いているだけだったが、その表情は穏やかだった。私が冗談を言うと、父はくちびるを少し動かし、わずかに微笑に似たものを浮かべた。昔話に興じている時の、かすかな興奮のようなものも感じられた。握り続けてやっていた冷たい手は、私の体温を受けて次第に温まっていった。

 いったい何をそれほど話すことがあったのか。私は飽きずに、あれこれと昔の記憶を語り続けた。話すことのできない相手から、無理して何かのことばを引き出そうとしなくても、ひとりで語り続けていれば、それもまた充分、「会話」として成立するということを私はその時、初めて知った。

 楽しいひとときだった。このまま、この時間が永遠に続けばいい、とすら思った。

 そのうち陽が傾いて、窓の外には夕暮れの気配が漂い始めた。看護師が足繁く病室に出入りし始めた。病室の外廊下を行き交う人の数も増えてきた。私は名残惜しい気分を振り払って、帰り支度を始めた。

 帰りぎわ、「また来るね」と言って軽く手を振った。病室から出ようとした時、父が私を呼び止めた。声もことばもないのだが、呼び止めているということだけはわかった。

 私が振り返ると、父は何かもの問いたげな顔をした。少し開いた色の悪いくちびるが細かく震えた。口腔の震えも烈しくなった。

 私は父のそばまで行き、その口に耳を近づけた。ささやき声すら出にくくなっており、口腔の震えは尋常ではなく、何を言わんとしているのかは、勘を働かせなければならなかった。

 いくらそうした努力をしても、結局、何を言おうとしているのか、わからないまま終わるのが常だったというのに、その時、どうした加減か、私ははっきりと父のことばを聞きとることができた。

 父は「いえ」と言った。何度も何度も、残った力をふりしぼるようにして「いえ」ということばを口にしようとした。「い」という音と「え」という音が、永遠に続くかと思われる烈しい吃音の中で、重なったり離れたりを繰り返した。

 そのころ、私たち夫婦は軽井沢の別荘地に新しい家を建て始めていた。前の年の一月に、同じ別荘地にあった自宅を暖炉の煙突からの出火で全焼させてしまったからだ。

 新しい家がどうなるのか、どんな設計の家になるのか、いつ引っ越すのか、父は案じ、知りたがっていた。

 早速、バッグをまさぐって携帯を取り出し、ベッドに腰をおろして、保存しておいた画像を父に見せてやった。新居の模型の画像だった。今はまだ基礎工事の段階だけど、こんな家になる、と教えた。細かい説明も加えた。

 父は画像を食い入るように見つめ、じっと私の説明に耳を傾け、満足そうにうなずいた。本当に満足そうだった。

「家ができたら遊びに来てね」と言いたかった。そんなことはできるわけもない、とわかっていたが、そう言いたかった。

 だが、どうしてもそのことばは出てこなかった。携帯を閉じ、じゃあ、行くね、とだけ私は言った。

 父はまた、わずかにうなずいた。その向こうの窓に、暮れなずんでいく春浅い空が見えた。

 それが生きている父と会った最後になった。

【次ページ】 ダンボール箱に詰められた遺品

文春文庫
沈黙のひと
小池真理子

定価:770円(税込)発売日:2015年05月08日

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