エロスに向かおうとする力
ほぼ十年という長い歳月、父は次第に進行する手の震えや転倒、すくみ足に苦しんだ。やがて声が出しづらくなって、口腔や咽頭の震えもひどく、烈しい吃音になった。しまいに何もしゃべれなくなり、歩行器を使っても歩けなくなって、車椅子生活を余儀なくされた。
動かせない身体のせいで、内臓にもあちこち障害が起きた。ことばの伝達ができないために、きわめて簡単な頼みごとひとつするにも、途方もなく長い時間を要した。常日頃、考えていることを表現しようとしても、口頭で伝えるのは夢のまた夢。たった十行の文章を綴るのに、二時間も三時間もかけてワープロのキイボードに向かわねばならず、疲労のあまり寝込んでしまって、起き上がれなくなることもあった。
そんな老人が、八十五歳の生涯を終える、そのほんの直前まで、どこでどう仕入れたものやら、「性具」をひそかに所有し、見守りのための監視カメラのついた老人ホームの小部屋で、裏ビデオを観賞していたのだ。「性具」を利用し、何らかの方法で楽しんでいたのだ。その種の妖しい楽しみが、彼に残されていたということに、私は深く安堵したのだった。
車椅子とベッドの往復。認知症の高齢者たちが発する奇声の中での、会話のない食事。好きなテレビ番組を観ることすら、職員に伝えることができない。行きたい場所、買いたいものがあり、たとえそれをうまく伝えることができても、人手不足を理由に婉曲的に断られる。
忙しくて、なかなか訪ねてこない娘たち。認知症が始まってしまって、夫の面会どころではなくなっていた妻。少しずつ少しずつ、自分の置かれた情況を受け入れながら、やがて沈黙していかざるを得なくなった父……。
そんな男が、性的な妄想……かどうかは不明としても、少なくとも性的な世界を保ち続けていたという事実に、おかしな言い方かもしれないが、私は何か荘厳なものすら感じたのだった。
死を不安に思わない人間はいないだろう。恐怖を覚えない人間もいないだろう。だが、性愛は、その不安と恐怖をいっとき忘れさせてくれる。性愛こそ、死の恐怖から逃れるための唯一絶対のものではないか、と私は思う。
身体が動かなくなり、生きていくために人の手を借りねばならず、おまけに沈黙せざるを得なくなった彼の絶望を性愛が救ってくれていた時期があった。たとえそれが、裏ビデオを観賞するだけのことであったとしても、それは彼にとっての小さな、ささやかな喜びであり、胸高鳴る秘密の儀式であり、生きている、という実感そのものだったはずである。
そのことがわかっただけで、どれだけ嬉しかったことか。性具だろうが、卑猥な映像が延々と続く裏ビデオだろうが、何だってかまわない。日がな一日、車椅子の中で背を丸め、なかなか訪ねてくれない、忙しがってばかりいる娘を待つともなく待ちながら、床を見つめているしかなかった父の中にも、最後まで性愛の灯、エロスに向かおうとする力が消えずに残されていたことに、私は心底、救われる思いがした。
沈黙のひと
発売日:2015年05月22日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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