書評

犬という生き物が愛おしくなる物語

文: 田口 俊樹 (翻訳者)

『その犬の歩むところ』(ボストン・テラン著 田口俊樹訳)

 実情はともかく、アメリカと言えばどうしても物質的に豊かな国というイメージがつきまとうが、本書で描かれているのはモノではなく、アメリカの名もなき人々の心の豊かさだ。その豊かな心を犬とも人とも共有し、与え合うことの尊さ、美しさ。作者が訴えたかったのはそれだろう。そのことはなにより“ギヴ”という命名に明白に示されている。

 楽屋話めくが、実は原著ではいわゆる四文字ことば、それにshitといった卑語さえいっさい伏せ字になっている。その昔、fuckということばは×××やf──といったふうに書かれ、そのまま印刷されることはなかった。それが七〇年代以降、ポルノ解禁とともに、なしくずし的に印刷物にもお目見えするようになるのだが、今や小説でも映画でも眼に耳にしないほうが稀と言えるほどだ。で、ふと気になり、著者に問い合わせたところ、よい子のみなさんにも読んでもらいたいと思ったのと、なにしろ犬が主人公なのだから、という返事が返ってきた。犬が主人公だとどうしてそうなるのか、そこのところはあえて突っ込まないでおくとして、いずれにしろ、表現の彼我のちがいを考え、同じ処置をするとかえってわかりにくくなるとも判断し、訳文では伏せ字にはせず、適宜ことばを補ったことをお断わりしておく。

 ボストン・テランは今も覆面作家のままだ。本名も生年も公表されていない。著者を評するあちらの文章などでは、“彼”という代名詞があてられているようだが、実のところ、性別すらわからない。作者より作品という考えの持ち主なのだろう。ただ、あてずっぽうを言えば、現在六十代の女流作家ではないだろうか。作風から想像すると、神話と宗教に関心も造詣も深い人らしく、たとえば『凶器の貴公子』。この作品については、書評家の杉江松恋(すぎえまつこい)氏がその神話構造を見事に解き明かしている。本作にも旧約聖書のよく知られた話を想起させるくだりがある。一方、処女作『神は銃弾』の主人公の保安官、ボブ・ハイタワーというのは、ピーター・B・カイン原作、ジョン・フォード監督の西部劇『三人の名付親』でジョン・ウェインが演じたならず者の名だ。また本書では、ヒコックがギヴと出会う直前にたまたまはいる酒場の名前が〈三人の女〉。酒場にしてはちょっと変わった名前だが、これは『音もなく少女は』のフランス語版のタイトル(Trois Femmes)である。真面目な人柄が想像されるが、テランはそういう遊び心の持ち主でもあるようだ。

 その近況は──本書の上梓後、『暴力の教義』の主人公ジョン・ルルドをふたたび主人公に据えたGardens of Grief 、ルルドの息子が活躍するThe Country I Lived Inを続けて著し、昨年、ジンギスカンの墓跡を見つけることに囚われた依頼人に付き添う女性弁護士が主人公のBy Your Deedsを発表した。あらすじを読むかぎり、これまた一風変わった小説のようである。

 昨今、アメリカだけでなく“不寛容”が世界に広がっている。それにはそれなりの理由があるのだろうが、やはりいい風潮とは言えまい。テランが描いた壁画から聞こえてくるのはそんな世に抗う人と犬への賛歌である。訳者として今一度請け合っておきたい。いい小説だ。すがすがしい小説だ。


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その犬の歩むところボストン・テラン 田口俊樹訳

定価:本体820円+税発売日:2017年06月08日