題名の「サンダーボルト」は、相葉と井ノ原が少年時代に観ていたという架空の戦隊ヒーローもの『鳴神戦隊サンダーボルト』と、作中映画館で上映される実在のアメリカ映画『サンダーボルト』から採られている。ハリウッド史上に残る「呪われた映画」である『天国の門』で知られる鬼才チミノの監督デビュー作である『サンダーボルト』は、クリント・イーストウッド演じるサンダーボルトと、ジェフ・ブリッジス扮するライトフットという悪党二名の逃亡劇である。これは単行本刊行時に複数の評者から指摘されていたことだが、同映画はいわゆる「バディ(=相棒)もの」――ひょんなことから行動を共にすることになった性格や境遇の異なる二人が、衝突しながらも次第に友情を育んでいくというパターン――の走りとされており、そこから題名を貰った『キャプテンサンダーボルト』も明らかに「バディもの」と呼べるストーリー展開となっている(それだけではないが)。そしてここでの「バディ」が相葉と井ノ原のみを指すのではなく、阿部と伊坂という作者二名をも意味していることは間違いない。片や芥川賞作家、片や山本周五郎賞&本屋大賞受賞作家、ともすれば真逆とも捉えられかねない二人が、がっつりとタッグを組み、多くの困難を乗り越えて、ひとつの冒険をやり遂げる(一篇の小説を書き上げる)ことこそ、この『キャプテンサンダーボルト』という小説に刻まれた稀有なる出来事なのである。
実際、一見すると現在の小説シーンにおいて両極の尖端に位置しているかに思える阿部と伊坂には幾つかの共通項がある。阿部は「純文学」、伊坂は「(広義の)ミステリ」というジャンルに属していると言えるが、二人はどちらも複雑巧緻なプロット作りに長けた作家であり、そうであるがゆえに彼らの作品では何らかの「陰謀」が描かれることが多い。表面的な事実の裏に隠された秘密、の底に潜む企み、の陰に蠢く黒幕、等々といった何層にも重なった謀こそ、両者の小説の醍醐味である。と同時に、陰謀好きとは矛盾するようだが、にもかかわらず二人の作品には、奇跡の到来を希求することや、自分の範疇を越えた力への理屈を越えた信頼など、極めてピュアな、ほとんどナイーヴとさえ言い得るような不思議な感覚がしばしば宿っている。伊坂小説の作中人物たちは、それぞれの仕方で「正義は、たとえ勝てなかったとしても、けっして負けない」と言いたいように見えるし、阿部の登場人物たちは「信ずればかなう」という無根拠な希望を体現しているように思える。そして二人の作家が造り出した二人の主人公は、あれよあれよという間に時空を越えた陰謀の渦中に放り込まれ、自分たちでもよくわからないうちに、だが或る決意と確信をもって「世界を救う」。そう、陰謀論と純粋さの独特な共存こそ、二人の作家の共通点なのである。
また、上の点に関連しているとも思われるが、阿部和重も伊坂幸太郎も、小説というものを、あくまでも人工物だと考えている。それは現実世界の鏡ではなく、言葉で構築された虚構世界である。しかしだからといって、彼らの小説が現実や事実に対応物や参照物を持っていないということではない。本作でもわかるように、二人は歴史的、地理的な膨大なデータを駆使して本作を書いている。だが、それでも、そこで企図されているのは、いわば寓話を語ることなのだ。彼らの作品においては、リアリティよりも優先されている要素がある。物語であること、虚構であること、フィクションであることを最大限に行使して、生半可なリアリティなどはるかに凌駕する世界の真理に迫ること。いかにも作り物っぽい筋立てやキャラクタライゼーション、場面描写などは、そのためにこそ要請されている。このことも、明らかに二人に共通する姿勢だと私には思われる。
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