別冊文藝春秋

『レフトハンド・ブラザーフッド』知念実希人――立ち読み

文: 知念 実希人

電子版17号

 思考のまとまらない頭に、海斗の説得が染みこんでくる。岳士はゆっくりと体を起こした。判断に迷ったら海斗の言葉に従う。幼い頃からの行動原理が体を動かす。パトカーのサイレン音は、もうすぐそばまで近づいていた。

『いますぐに逃げるんだ!』

 その声を合図に、岳士は立ち上がる。屋上に散乱しているサファイヤの空容器を拾うと、それをズボンのポケットにねじ込み、外階段へと向かう。大きな金属音を立てながら外階段を駆け下りている途中で、パトカーのサイレン音が止まった。警官が現場に到着したのだろう。

 海斗が『急げ!』と急かしてくる。言われなくても分かっていた。外階段がある狭い路地の奥は行き止まりになっている。路地から出るためには、少女が墜落した表通りに向かうしかない。もし、そちらから警官が来たら一巻の終わりだ。警官一人ならなんとか殴り倒して逃げることも出来るかもしれないが、応援を呼ばれたらそれまでだ。

 階段を駆け下りた岳士は、そこにも落ちていたサファイヤの容器を拾い上げると、路地の出口へと走り、ビルの陰から表通りをうかがう。回転灯を灯したパトカーが車道に停車し、二人の警察官が倒れている少女の傍らに立っていた。数人の野次馬が、スマートフォンで撮影したりしながら現場を遠巻きに眺めている。

 誰もが少女の遺体に視線を集中させている。いましかない。

 覚悟を決めた岳士は呼吸を整えながら路地から抜け出すと、騒ぎを背に歩きはじめた。出来ることなら全力疾走でこの場から離れてしまいたいが、そんなことをすれば注意を引いてしまう。スピードを上げようとする足を必死にいさめながら進んだ岳士は、十字路を曲がった瞬間、体を前傾させて走りはじめる。

 あの現場から、そして自分のせいで一人の少女が命を落としたという現実から少しでも遠くに逃げたかった。しかしなぜか、現場から離れれば離れるほど鮮明に、笑みを浮かべながら落下していく少女の姿を思い出してしまう。それはいつの間にか、自分と同じ顔をした男が落下していくシーンへと変化していった。

 激しい嘔気をおぼえた岳士は、慌てて足を止めるとブロック塀に右手をつき、えずいた。粘ついた胃液が口からこぼれ落ちる。焼け付くような苦みが口腔内を冒した。

『・・・・・・ここまで離れれば大丈夫。もう始発も動いている時間だ。駅に向かおうよ』

 力なく頷いた岳士は、右腕で口元を拭うと力なく歩き出した。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版17号文藝春秋・編

発売日:2017年12月20日


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