〈「おまえ、ニルヴァーナとか好き?」
いつもより、いっそう早口でWがその言葉を口にしたのでその単語を聞き取れず、何? と言いながら、右耳をWのほうに向けた。
「ニル、ヴァー、ナ。ニ、ル、ヴァー、ナ」
Wは音節を区切り、口をゆっくりと開けて、その単語をくり返した。とはいえ、その単語を覚えてみても、それがどんな意味なのか、そのときの僕にはまったくわからなかった。
「バンドの名前だよ。おれが好きな。ここ出たら聴いてみなよ。おれはさぁ、あのブタ女を刺したときも、あいつらの曲を聴いてたんだよね」
音楽のことにはまったくくわしくないから、Wが何を言ってもその言葉は耳を通り過ぎてしまうような気がした。けれど、そのときの会話のことは、あの場所を出たあとも忘れず覚えていた。初めて聞くニルヴァーナ、という不思議な音が僕の耳に残った。〉(295~296頁)
意味はわからなくても、ニルヴァーナという音が晴信に肉体化する。そして、晴信が倫太郎と名を変えて、新しい人生を始めてからも、ニルヴァーナは、肉体から離れていかない。ニルヴァーナには、仏教用語で「涅槃」という意味がある。涅槃には、死への誘惑が伴っている。倫太郎が死を望んでも、国家が死を許さないのである。その論理が、本書では端的にこう説明されている。




