中心なき世界
それに加えて、今後は「辺境」を考える人文的な枠組みそのものにも修正が必要です。これまでの枠組みを代表するのはひとまず、歴史学者イマニュエル・ウォーラーステインの提唱した世界システム論における「中心と周辺」図式だと言えます。ウォーラーステインは一七世紀のオランダから一九世紀のイギリスという海洋国家を経て、二〇世紀のアメリカという大陸型の国家に到る世界史上の「覇権国家」(中心)の移動を主眼にしながら、周辺化された地域がそれに経済的に従属するという分業システムを示しました。
しかし、僕にはこのモデルの有効性が疑わしくなっているように見えます。アメリカ社会が空洞化する一方、国家の制御を離れたグローバル資本主義が世界を覆い、経済活動そのものもフラット化し分散化している今、特定の中心的な覇権国家に富が集中し続けるということにはなりません。逆に、アジアの勃興を見れば分かるように、周辺もずっと隷属的な位置に留まるわけではないのです。アメリカの次の覇権国家を予想する意味も、恐らくたいしてないでしょう。そもそも、近代の世界システムはヨーロッパの工業化の歴史に根ざしており、グローバルかつポストインダストリアルな情報化と金融のマネーゲームの支配する時代にはその前提は大きく変わらざるを得ません。*2
象徴的なことに、僕がこの文章を書いているのは、二〇一六年のアメリカ大統領選の結果が出た翌日です。事前の世論調査を覆すドナルド・トランプの勝利は、ひとびとのカオス願望を表面化させ、既存の知と秩序を嘲笑するものでした。現状の選択肢がすべてゴミクズであるならば、不確実性を増すドタバタ劇のほうがマシだし、少なくとも悪ノリできて面白い──、そんな愉快犯的な投票行動もあったことでしょう。現に、世界じゅうで多くのひとびとがこの大国の無軌道ぶりにエキサイトしているはずです。テレビ司会者で不動産王でもあるトランプは、綺麗事では済まない欲望を覚醒させました。確かにアメリカは今でも世界の中心ですが、それは錯乱の中心なのです。
もっとも、自暴自棄の快楽はじきに冷めます。人文知はトランプ現象の狂騒とは別のところで、いわば現代を他人のように突き放しながら新しいヴィジョンを示さなければなりません。仮に世界の絶対的な中心がなくなるとしたら、それはすべての地域が大なり小なり「辺境」に変わるということです。つまり、今後明確になってくるのは、いわば世界規模での「辺境の遍在化」だとは言えないでしょうか?
*2 川北稔『世界システム論講義』(ちくま学芸文庫、二〇一六年)。
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