『太陽は気を失う』(乙川優三郎 著)

 あるいは、「坂道はおしまい」では、夫が生涯の仕事としたヘラブナ釣りのための浮子作りを、夫亡きあとに引き継いだ妻の心象が描かれる。職人としての覚悟を決めて、夫の遺した浮子の研究を重ね、自身の技術を高め、子供らの独立まではと身なりにすらかまわなくなっていた奈央子だが、大学時代の友人だった小西という男から、ある日こう語りかけられる。〈「君はどうなの、ご主人の亡霊と仕事を続けることで充たされるとしたら、かわりに何かを失っていると思うがね」〉

 はたして、人はなにかを失わずになにかを得ることはできないのだろうか。「そろそろひとりの女性に戻ってもいいころじゃないのか」という小西のセリフは、直截的な求愛の言葉であると同時に、奈央子をがんじがらめにしていた他人のために生きるという価値観から彼女を解き放つものにもなるのだ。

 夫婦という関係の滋味ぶかさを描き出すものとしては、「まだ夜は長い」も印象的である。他にも「日曜に戻るから」で描かれた、長年夫婦でやってきたはずの相手にグロテスクと言っても過言でないほどの他者性を見出すさまには、わが身をぶるると震わせる読者もすくなくないだろう。