一男は、若くして億万長者となった男の名前を冠する子猫にキャットフードと水をやる。ずいぶんとかわいらしいIT長者が食事に夢中になっているすきに、部屋を出て共有スペースにあるシャワーを浴びた。外を歩いて部屋に戻ってくるまでのわずか数十秒で、濡れた髪の毛が氷のように冷たくなっていた。急いで湯を沸かし、インスタントの珈琲を淹れる。買い置きしていたバナナと、工場から支給された食パンで朝食を済ませテレビのニュース番組を見ていたら、ガクッと電池が切れるかのように眠ってしまった。
お笑い芸人の笑い声で目が覚めた。昼のバラエティ番組が始まっている。貼り付けたような観覧客の拍手がリフレインされる。慌てて時間を確認すると、十一時を過ぎていた。「いけない! いってくるよ!」一男はザッカーバーグの頭を撫でながら立ち上がると、めったに着ることのないチャコールグレーのスーツをクローゼットから慌ただしく取り出した。慣れない手つきでネクタイを締め、革靴を履き、寮の部屋を出た。
お、めずらしい。隣の部屋に住む老齢の同僚がすれ違いざまに声をかけてくる。寮は禁煙なのだが咥(くわ)えタバコをして、銀歯だらけの口内を見せながらにやりと笑う。
「どうしたマジシャンみたいな格好して。パーティでもいくのか?」
「え、いやあのちょっと約束があって」
「デート?」
「まあ、そんなとこです」
ちゃんと履けていない靴のつま先を打ちつけながら、逃げるように階段を降りる。楽しんでこいよ。同僚は片手に持った競馬新聞を旗のように振る。声に応えるように手をあげると、一男は駅に向かって駆け出した。
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