こちらの主人公は、人並みのすけべ心を抱きながらもひどく世間体を気にする臆病な性格で、満員の通勤電車では痴漢の疑いをかけられないよう万歳をしたまま乗る男。これまた「怒鳴り癖」の〈私〉とは対照的ながら、そなわった自分の性格に自身が振り回されるという意味で同じなのかもしれない。
「時には母のない子のように」に登場する〈私〉は六十四歳の弁護士の男。事務所で雇っている新米弁護士が担当した事件の被害者「山下路子」という名前に見覚えがあった。〈私〉が大学二年生、二十一歳のときに弾き語りのアルバイトをしていた新宿のスナックで知り合ったホステスが山下路子だったのだ。〈私〉は若いころの恋愛やごたごた騒ぎをふり返る。
最初の二作とは打って変わって、昭和四十五年の新宿歌舞伎町を舞台にした青春恋愛ものである。甘くそしてあまりに苦い青春の思い出が綴られていく。やはり作者と年齢の近い読者であれば、その時代を懐かしく思うだろう。いや当時を知らない若い人でさえ、行間から漂うノスタルジックで感傷的な想いを読み取るにちがいない。そのむこうに現在の自分がいることを腕の傷をさすりながら確かめる主人公の姿がなんとも切ない。
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