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【冒頭立ち読み】『平成くん、さようなら』(古市憲寿 著)#1

ジャンル : #小説

平成くん、さようなら

古市憲寿

平成くん、さようなら

古市憲寿

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『平成くん、さようなら』(古市憲寿 著)

 彼は、自分が関心がないことについては、常に受け身である。全くこだわりがないのだ。親しい友人に、平成くんと一緒に暮らしていることを打ち明けると、「あんな極端な人間とよく一緒にいられるね」と言われることがある。しかし、私は彼をストレスだと感じたことは一度もない。それどころか彼は、私の頼み事には時間の許す限り付き合ってくれた。食事や映画、旅行に誘って、予定が合わない時を除けば、断られたためしがない。

 けれど彼にとって私は何なのだろう。もう直接、何度も聞いたはずなのに、いつも彼の答えを忘れてしまう。きっと、私が珍しく彼の言葉に納得していないからだ。

 そんなことを考えていると、アミューズが運ばれてきた。牛肉と蟻(あり)をオリーブオイルと塩でマリネした料理だ。ニューノルディックの影響なのか、最近は東京でも蟻を出す店が増えた。スプーンで牛肉と蟻を軽く混ぜて、口に運ぶ。口の中で潰れた蟻は強い酸味を放出し、まるで粒胡椒や山椒のような味わいがある。彼は、おいしいともまずいとも言わずに、牛肉と蟻のマリネを咀嚼(そしゃく)している。

「蟻、嫌いじゃなかった?」

「大豆やエビと同等のタンパク質が含まれていて、8種類の必須アミノ酸も含まれている。体積が小さいから一般的に昆虫食が期待されているような食肉の代替品にはならないだろうけれど、調味料としては効果的なんじゃない?」

 一言も味の感想を言わずに、彼は情報として食事を摂取しようとする。テレビ番組に出演する時も、論理的で理知的な、冷静さを失わない「平成くん」の話しぶりは、よく共演者たちから突っ込みの対象になっていた。

 しかし私は、彼がエビデンスや論理だけに基づいて行動していないことを知っている。ピーマン、ニンジン、ナス、エリンギ、二枚貝が食べられないといったように、彼には異様に好き嫌いが多いのだ。もし本当に彼がロボットのような人間であれば、栄養素が豊富なピーマンやニンジンといった食材を拒否する理由はない。蟻を食べたのも、実は恐る恐るだったと見ている。

 次の料理はフォアグラのタルトに、蜂蜜と野生の花が添えられていた。花束をイメージしているのだろうか。フォアグラを花瓶、蜂蜜を枝に見立て、サラダといってもいいくらいの量の花々が、皿一面にあしらわれている。

「きれいだね」

「モチーフはセザンヌじゃないかな。国立近代美術館が2014年に20億円で落札した『大きな花束』という作品があるけど、シェフはその影響を受けていると思う。花や葉が、茎や枝に繋がっていないのが特徴の作品を、蜂蜜と食用花で再現したんだろうね」

単行本
平成くん、さようなら
古市憲寿

定価:1,540円(税込)発売日:2018年11月09日

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