しかし、彼も誰かに説得されることや、考えを変えることはある。自分で解いた式に足りなかった条件を相手がインプットした場合、計算のやり直しが行われるからだろう。そして人間である彼は、時々大きな計算間違いをする。そのことには彼も自覚的なようで、「君は検算なんだよ」と言われたことがある。彼の計算と私の直感が食い違うことはほとんどない。だから、彼が死にたいと考える理由を聞いても、私はあっさり納得してしまうのかも知れない。
だけど死を選ぶということは、人間としての帰還不能点を越えることであり、決して取り返すことのできない重大な決断だ。一度は「いいんじゃない」と答えてしまったものの、検算に検算を重ねてあげる必要がある。
空腹を抑えられなかった私は、平成くんを誘って食事に出かけることにした。
レストランを決め、予約をとるのはいつも私の役割だ。家ではサラダサーモンと冷凍ブルーベリーしか口にしない彼に、どこで何を食べるかという重大な決断を委ねるわけにはいかない。食べログにストックしてあるリストの中から、まだ行ったことがなかったお店を選ぶ。幸い、電話をかけると個室が空いていたので、今から30分後に行くと伝えた。
念のため、ミライの餌を補給しておく。実家から連れてきたロシアンブルーのミライは、今年で19歳になる。人間でいえばとっくに高齢者ということもあり、最近はDENに置かれたベッドの上で横になっていることが多い。それでも私が首の付け根を撫でると嬉しそうに声を出す。一時期は7キロを越えていた巨体も、最近はすっかり痩せこけてしまった。
私がミライの世話をしている間に、彼はすっかり身支度を調え、玄関で待っている。ドリスヴァンノッテンのシャツに、サカイのパンツ。メゾンマルジェラのパッチワークコートを羽織って、ラッドミュージシャンのブーツを履いている。笑ってしまうくらい、どれも「平成くん」らしいブランドだと思った。
彼はバッグを持たない。近所に出かける時はiPhoneだけで、少し遠出をするときも、そこに小さなパスケースが加わるだけだ。トムブラウンのパスケースには、アメックスとビザのクレジットカードが1枚ずつと、一万円札が3枚だけ入っている。一度、彼と奈良に行った時は大変だった。ほとんどのお店でクレジットカードが使えずに、彼のポケットがみるみるうちに小銭で膨らんでいったのだ。おかげでお賽銭には困らなかったが、キャッシュカードを持たない彼の代わりに、ほぼ全ての支払いを私が立て替えることになった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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