たとえば、駒井夏がいまでいうセクハラに遭う場面があります。半ば戦場に臨む兵士のような決意で鹿鳴館のダンスパーティーに参加した彼女が、おっさん政治家、伊藤博文と踊る羽目になる。そこで見事にセクハラ発言に晒されて、化粧室に閉じこもって出て来なくなってしまいます。
その小さな個室で、彼女はひたすら自分を責める。いやらしいおっさんをではなく、いやらしいおっさんに性的な含みをもったからかいを許した、自分の隙を責めてしまうのです。「なぜ隙をつくったのか。(略)手玉に取られたのだ。ああ、なんと情けない、あさましい、疎ましいことか。この体はなんだ。なぜ女の体に生まれた。この体さえなければ、あのような辱(はずかし)めを受けることはなかったのに。侮(あなど)りを受けることはなかったのに。この体に生まれて、何か良いことがあったか。何か得をしたことがあったか。ままならぬことばかりではないか。どんなに逃げても厭(いと)うても、生きているかぎり、この体は私にぶらさがり、しがみついてくるのだ。ああ、もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。」
気の毒な駒井夏。あなたは悪くない、あなたの体も悪くない、自分を責める必要はどこにもないと言ってあげたいけれど、性犯罪の被害に遭った女性は(あるいは男性も)いまでも、自分の体を脱ぎ捨てたいような自己嫌悪にかられてしまうというし、実際、こうした感覚を理解できない女性は少ないのではないでしょうか。その駒井夏に、盟友である野原咲は、自分も同じように考えていた時期があったけれど、「女高師」で夏という友人に出会ってから変わったのだ、と告白するのです。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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