巻頭の「宝の持ち腐れ」は、志乃の教え子の家から、能書家として知られる藤原行成の書の掛軸が消失する事件が描かれる。
フランス文学者の辰野隆は、一九三二年に発表した随筆『書狼書豚(しょろうしょとん)』の中で、九州大学の成瀬教授から『ポン・ヌッフ橋畔、シラノ・ド・ベルジュラックと野師ブリオシエの猿との格闘』なる稀覯本を譲られた時のエピソードを書いている。辰野は、友人で稀覯本コレクターの山田珠樹、鈴木信太郎(共にフランス文学者)に「俺には保存慾はないのだから、欲しければ与(や)つてもいいよ」と軽口をいうも、二人は欲しいといい出さない。数日後、辰野が図書館にいた山田を訪ねると、偶然、鈴木も来ていた。辰野が「先日話した本は実は是なんだがね」といって卓の上に本を出すと、「電光のやうな速さ」で鈴木が「――ありがたう! と呶鳴つた」。山田は「たゞ飽気」に取られただけで反論もできず、結局、本は鈴木の「書斎」に入ったという。
掛軸の消失には、辰野がエッセイに書いたような、珍品を手に入れるためなら手段を選ばない、どうせ手放すなら価値の分かる人に譲りたいというコレクターの心理が深く関係している。それだけに志乃が語る真相を読むと、何かを蒐集した経験がある方は、身につまされるのではないだろうか。
「宝の持ち腐れ」には人間なら誰もが持つ欲望や愚かさを包み込む懐の深さがあったが、続く「心の仇」は心の闇に切り込むダークな事件が描かれている。
柏屋伊三郎なる男が紹介状を持たず常楽庵を訪ね、近いうちに死ぬ、家人に毒をもられたようだと話し、もし自分に何かあったら無念を晴らして欲しいと志乃に頼んだ。その言葉通り伊三郎が縊死(いし)し、仁八郎は現場となった柏屋の蔵へ向かう。
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