これは光國の字だ。屈託のない訊き方に、思わずうなずいていた。
「では、こちらは勘解由どのと呼ばせて頂く」
「光栄です。では、参りましょう」
「ここで仔細を聞くのではないのか?」
「お会い頂きたい方々がおります」
「わかった。馬で行くか?」
「はい。手前どもも馬で参りました」
「行く先は?」
「品川の東海寺です」
光國はいきなり苦い思いに襲われた。忘れかけていた古傷をつつかれた気分だった。
十年以上も前、あることがきっかけで東海寺の住職と縁を持ったのである。そのことは兄にしか話さなかった。兄は長男でありながら水戸家を継がせられず、代わりに前将軍家光様の意向で、讃岐高松十二万石に封じられている。三男でありながら世子となった光國との間に確執はなく、むしろ深い信頼関係にある。
「何か差し障りが?」
中山が細い目でじっと見つめてきた。意外に鋭い。光國はかぶりを振った。
「ではさっそく参ろう」
光國は再び馬に乗った。単騎である。家人には父の使いで出ると告げた。若い頃は、お目付役として父がつけた者たちが、ひそかに追ってきて護衛を担っていたものだが、光國の放蕩がやむに伴い、おのずと一人歩きが黙認されるようになっている。
品川まで馬を駆った。庶民が往来するところでは馬の足を緩めたが、もともと市中では馬や乗り物の事故は滅多にない。幕府が厳格に統制し、数を抑えているからだ。
街道に出ると光國は馬を疾駆させた。中山が涼しい顔でついてきた。二人の巧みな馬術に、他の者たちがみるみる引き離されていった。
東海寺が見えると、どちらからともなく速度を緩め、門前で二人とも馬を下りた。
「馬練をよほど積んだとみえるな」
光國が言った。軽く試してやるつもりだったが、正直、ぴったり併走されるとは思っていなかった。
「父より高麗八条流の手ほどきを受けました」
中山がにっこりと返した。先手組を務めるなら当然だといわんばかりだ。柔和な様子だが、芯は武人らしい。
光國が率先して馬を引き、寺の僧に馬を預けた。迷わず馬小屋まで進んだ光國の顔を、中山がやや覗き込むようにした。
「この場所にお詳しいのですね」
「昔、沢庵宗彭という坊主と縁があった」
中山の細かった目が急に丸くなった。そういうところも猫っぽかった。
「ここの開祖ではありませんか」
「坊主は坊主だ」
「はあ」
「それより、どこぞの大名が来ているようだ。日を改めるべきか?」
光國が、馬小屋につながれた馬たちと、お堂の方を見やった。砂利道に茣蓙を敷いて足軽たちがきちんと座り、主君を待っている。
「いえ。まさにお会い頂きたい方が、ご到着されているようです」
今度は中山が率先してお堂へ向かった。光國と中山が階段に足を乗せたところへ、真っ白い僧衣の男が、後ろからぬっと現れて二人の間に入り込んだ。
裸足である。僧衣の男が懐から雑巾を取り出し、さっさっと左右の足の裏を拭くや、ひょいと雑巾を庭の方へ投げた。若い坊主が飛び出し、雑巾を宙でつかみ、走り去った。
光國は、いったい何の修行か訊きたかったが、あまりに自然な所作のせいで訊く間がなかった。
白衣の男が振り返って一礼し、京訛りの江戸弁で告げた。
「ようこそおいで下さいました、御曹司様、中山様。拙僧は、今のところ、この寺を任されております、罔両子と申します」
罔両とは、魑魅魍魎の魍魎のことである。名の通り、人の常識の埒外にいそうな僧だ。六十近いが皺がほとんどなく、肌は白く艶やかで、外見からは年齢不詳。御城の奥女中たちが、ありがたいお経を聞きに行くと称して坊主買いに来そうな好い男だった。
「沢庵様のこのお寺は、大徳寺派の僧が輪番で管理しております。今は拙僧が、“お手合い”の養育ともども任されておりましてね。本日はご覧頂くため、特にこの『寺』が使う者たちを三人、ご用意いたしました」
光國は完全に話を見失った。
「養育? 三人とは?」
「百聞は一見に如かずです、子龍様。さ、罔両子様の後について参りましょう」
中山が言い、光國は訝しみながらも従った。
本堂の前を通り、奥の別棟の部屋に通された。しんとした空気の中、静かに座していた男が、向きを変えて光國たちを出迎えた。
光國と中山がすぐに膝をつき、作法通り慇懃に礼をした。
相手は、老中だった。阿部“豊後守”忠秋。今年、五十六歳。英才揃いの老中たちのうち、文治派と武功派の調整役とされる男だ。
「水戸の権中納言(頼房)様より、拾人衆の目付を御曹司様にお任せする旨、聞いております」
阿部豊後守が言った。拾人衆とは何か、さっぱりわからないまま、光國はひとまずうなずき返した。
「確かに、お務めを任せると言われました。仔細はここで伺うよう言われています」
「やはりお聞き及びではないご様子。さすれば拾人衆の者どもをご覧に入れましょう」
阿部豊後守が手を叩いた。襖が開き、三人の男女が現れた。いや、子どもたちだ。二人の少年の間に、一人の少女が座っている。
罔両子も中山も面識があるらしく、何の反応もない。光國だけが呆気にとられていた。その光國から見て左端の少年が、膝を進めて部屋に入った。十三、四の男子で、丁稚奉公のような出で立ちをしている。
「“手合い”は、拾人衆が一人、“みざる”の巳助にござります」
少年が告げた。手合いという符帳らしき言葉がまた出た。猿なのに巳(蛇)とは何か。光國が問いに困っていると、巳助が懐から懐紙と筆箱を出し、てきぱき並べた。筆を執り、紙にさらさらと走らせた。迷いのない巧みな筆さばきで、あっという間に人の顔を描き、それを持ち上げ、光國に向けた。
父・頼房の人相描きである。市井で売られているような誇張された絵ではない。正確に人相の特徴をつかんでおり、まるで今にも口を開いて喋り出しそうな出来映えだ。
阿部豊後守が、巳助を褒めるようにうなずき、光國に微笑みを向けた。
「巳助は、夜目、遠目に長けるだけでなく、ひとたび見たものを、こうして絵にしてみせます。景色、人の顔、絵図など、何でも描き出し、伝えることが出来るのです」
「なんとも、達者ですな……」
だが何のための技か、と光國が言う前に、真ん中にいた娘が前へ出た。こちらは巳助に比べてやや大人びているが、せいぜい十四、五だろう。きりっと整った顔立ちで、商家の子女のような出で立ちをしている。
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