娘が、両手の指でおのれの咽を妙な形に押さえた。それから、こう告げた。
「手合いは、“いわざる”の鳩と申します」
今度は猿なのに鳩か。そう思うより前に、娘が放った声音にぎょっとなった。父・頼房にそっくりの声だった。傍らで巳助が掲げた絵が喋ったのかとすら思った。
中山が言った。
「あのお鳩は、ひとたび聞いた声を真似ることができます。狼藉者を捕らえたとしましょう。その者が口を割らぬとき、物陰から、お鳩がその仲間の声色で話しかけるのです。たいてい、仲間と信じて喋り出します」
みざる、いわざると言いつつ、見たものを描き、他者の声で喋るのか。そう光國が口にする前に、残った少年が前へ出た。盲人だった。白濁した瞳が、光國の前の宙に向けられている。手には杖、出で立ちは坊主のよう、つまりは按摩の姿をしていた。
「手合いは、“きかざる”の亀一と申します」
蛇に鳩に亀か。縁起の良いものを並べたな、と光國は思ったが何も言わなかった。最後の少年が何を始めるか興味があった。
亀一がまるで講談でもするように言った。
「この場所にお詳しいのですね。昔、沢庵宗彭という坊主と縁があった。ここの開祖ではありませんか。坊主は坊主だ。はあ。それより、どこぞの大名が来ているようだ。日を改めるべきか? いえ。まさに……」
光國と中山の会話の再現である。盗み聞きしていたのか、と光國は感心した。そんな気配などなかったのである。
「亀一は、ずっとあちらの部屋にいました」
罔両子が、光國の内心を読んだように言った。光國はあんぐり大口を開けた。
「彼の耳は恐ろしく遠くの声を聞き取ります。どれだけ騒がしくてもですよ。按摩として出入りしてですね、その場所で交わされた会話を全て聞き覚えるんです。すごいでしょう」
罔両子が、にやりと口角を上げた。光國は絶句している。阿部豊後守が手を振ると、巳助が似顔絵を下げ、お鳩が咽から手を離し、亀一が白濁した目を閉じた。
そうして阿部豊後守が、光國へ告げた。
「彼らはみな“捨て子”であり、幕府に“拾われた”者たちです」
光國は急に合点した。先ほどから聞かされている符帳の意味である。
「拾う、という字にちなんで“手合い”というのですか?」
阿部豊後守がうなずいた。
「拾人衆とは、幕府に拾われた子らの中でも、特段の技能達者のこと。拾人衆が養われる場所を『寺』と呼びます。本当の寺とは限りません。ここは、その一つ」
「数も拾(十)人とは限らぬのでしょうな」
「ええ。この三人ほど優れた者はそうそうおりませんが、実際は百人余りもおります」
光國は目をみはった。大所帯である。ふと阿部豊後守についての噂を思い出した。“子拾い豊後守”とあだ名されるほど孤児の保護に熱心で、育児院の設置を幕閣に進言する一方、捨て子を育て、大名・旗本・御家人の養子とすること多数であるという。
「もとは大猷院(家光)様が、武家に出入りする、いわば密偵を育てるようお命じになったのが始まり。当初より水戸の権中納言様が、その目付でありました」
それは、光國も初めて知ることであったが、すぐに納得していた。
頼房は、家光が将軍になるやなかなか水戸に戻れなくなり、ついには江戸常住の定府ということになった。それだけ家光から信頼されたのだ。
家光実弟の徳川忠長は改易後に幽閉、異母弟の保科正之は高遠藩三万石を継いでまだ日が浅かった。御三家の当主のうち、尾張義直と紀伊頼宣にはどちらも謀叛の疑いがかけられた過去がある。
つまり家光は、頼房しか頼れなかったのだ。
「では、この者たちのお務めとは、武家の内情を探ることですか?」
「かつてはそうでした。ですが喫緊の問題は、武家に出入りする者たち。中でも、名だたる武将の子孫を自称し、あえて仕官をせず、市中を自由に往来する、浪人たちなのです」
「奉行所や大目付のお務めでは?」
「町奉行は町衆、寺社奉行は寺社と、厳密に定められており、武家は管轄外なのです。二奉行と評定所の裁定を担う勘定奉行は、おびただしい訴訟と大火による財政の処置で手一杯。また、大目付が動けば……大名改易となりかねません」
最後の言葉に光國もうなずいた。大目付は、将軍側近たるお側取次ぎの者が諸国を監視し、評定所にも出座して監察に当たる。御政道を滞りなく行うためとされるが、実態は文治派による武功派の排除が主眼である。
公平ではないし、大目付が動けば幕閣内で騒ぎが起こる。
由井正雪という浪人が幕府転覆をはかったときも、徳川御三家の紀伊藩に共謀の疑いをかけたのが、大目付と一部老中である。紀伊藩主・徳川頼宣は、武功派の気風が強く、その排除のための讒言だったとも言われている。
「拾人衆の務めは、普通では手が届かぬ証拠を手に入れ、正しく扱うこと。そののち管轄のお役所に報せ、評定所の裁定を仰ぎます」
政治的に潰されたり、改竄されぬよう、証拠を保持するということだ。由井正雪と紀伊藩の一件も、頼宣直筆とされた文書が偽書と断定され、嫌疑が晴れた。大目付には痛恨の結果だ。なんとなく、ここにいる者たちの陰働きがあったと考えるとしっくりくる。
「承知しました。だが浪人の数は膨大。速やかに探らねばならぬ者の目星はついているのですか?」
中山が、代わって答えた。
「ある浪人がおります。秋山官兵衛と名乗り、火遁の術の達者という触れ込みで、いくつもの武家屋敷を渡り歩き、火除け法を伝授すると称して報酬を受け取っています」
「咎めを受けるいわれはなさそうだが……」
阿部豊後守が、袂から紙の束を出して広げた。光國は息をのんだ。
絵地図の“写し”であった。御城を中心とし、武家屋敷や町人の住まい、寺や橋など、詳細に描かれている。色はついていないが、もとの絵地図は色分けされていたはずである。邸を拝領した大名の名などは大半が省かれていたが、位置や形からだいたい判別がついた。
しかも驚いたことに、最新の町割りだった。大火後に幕閣が定めた、町や寺の移転、大名屋敷の配置換えが反映されているのだ。
「いつの間にこのようなものを作ったのですか?」
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