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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

文: 冲方 丁

『剣樹抄』(冲方丁 著)

 光國はうなずいた。

 明暦三年正月は、火事につぐ火事の月だった。元日、二日、四日、五日、九日、十八日、十九日に二回と八度も火が起こり、江戸の大半を焼き尽くした。特に十八日は、四百町が焼け、焼死者は五万とも十万ともいわれた。後年、振袖火事と呼ばれる未曾有の猛火となったのである。

 折しも由井正雪が江戸焼き討ちを計画したのが六年前だった。別木床左衛門が、崇源院様の二十七回忌に増上寺に放火し、幕府老中を討ち取らんと企てたのが五年前である。

 元日に火が起こってのち、反幕浪人が江戸を焼こうとしていると、まことしやかな噂が広まり、大火を経て夏を迎えた今もそれが消えず、町奉行を苛立たせていた。

「その流言が、どうしましたか?」

「詳細は、これから来る客人に会って聞け」

 端的もいいところである。光國は呆れた。

「せめて誰が来るか教えて下さい」

「中山勘解由。三千石の旗本だ。父親は先手組弓頭だった」

 先手組は、戦で先陣を切るお役目を担う。武功派の親を持つ、若手の旗本だろうと光國は想像した。そして、浪人の流説とくれば、どんなお務めか、これで推測できた。

「委細お任せ頂ける、と?」

 指示がないなら好きにやるぞと言ってやった。

 父が、淡々とした様子でうなずいた。嫡子がどこまでできるか試そうというのだ。光國はこれから自分が何をすべきなのかもわからぬまま、ぐっと肚に気を込めて客人を待った。

 ほどなくして到着を知らされ、光國が玄関先に出ると、柔和な様子の若者が立っていた。

「御曹司様がお出迎えとは、恐縮です。手前は、中山勘解由と申します」

 微笑むと細い目がますます細くなって猫が目を閉じたような顔になる。見ている方が幸せな気分になる、平和そのものの面相だった。今年、二十五歳。十三歳で父が没して家督を継ぎ、今は徒頭だという。れっきとした当主であり妻子持ちだ。連れ歩く家臣の数も、世子に過ぎない光國より圧倒的に多いが、物腰はいたって控えめだった。

「子龍様とお呼びしてもよろしいですか?」

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剣樹抄冲方丁

定価:本体1,500円+税発売日:2019年07月10日


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