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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

文: 冲方 丁

『剣樹抄』(冲方丁 著)

 これは光國の字だ。屈託のない訊き方に、思わずうなずいていた。

「では、こちらは勘解由どのと呼ばせて頂く」

「光栄です。では、参りましょう」

「ここで仔細を聞くのではないのか?」

「お会い頂きたい方々がおります」

「わかった。馬で行くか?」

「はい。手前どもも馬で参りました」

「行く先は?」

「品川の東海寺です」

 光國はいきなり苦い思いに襲われた。忘れかけていた古傷をつつかれた気分だった。

 十年以上も前、あることがきっかけで東海寺の住職と縁を持ったのである。そのことは兄にしか話さなかった。兄は長男でありながら水戸家を継がせられず、代わりに前将軍家光様の意向で、讃岐高松十二万石に封じられている。三男でありながら世子となった光國との間に確執はなく、むしろ深い信頼関係にある。

「何か差し障りが?」

 中山が細い目でじっと見つめてきた。意外に鋭い。光國はかぶりを振った。

「ではさっそく参ろう」

 光國は再び馬に乗った。単騎である。家人には父の使いで出ると告げた。若い頃は、お目付役として父がつけた者たちが、ひそかに追ってきて護衛を担っていたものだが、光國の放蕩がやむに伴い、おのずと一人歩きが黙認されるようになっている。

 品川まで馬を駆った。庶民が往来するところでは馬の足を緩めたが、もともと市中では馬や乗り物の事故は滅多にない。幕府が厳格に統制し、数を抑えているからだ。

 街道に出ると光國は馬を疾駆させた。中山が涼しい顔でついてきた。二人の巧みな馬術に、他の者たちがみるみる引き離されていった。

 東海寺が見えると、どちらからともなく速度を緩め、門前で二人とも馬を下りた。

「馬練をよほど積んだとみえるな」

 光國が言った。軽く試してやるつもりだったが、正直、ぴったり併走されるとは思っていなかった。

「父より高麗八条流の手ほどきを受けました」

 中山がにっこりと返した。先手組を務めるなら当然だといわんばかりだ。柔和な様子だが、芯は武人らしい。

 光國が率先して馬を引き、寺の僧に馬を預けた。迷わず馬小屋まで進んだ光國の顔を、中山がやや覗き込むようにした。

「この場所にお詳しいのですね」

「昔、沢庵宗彭という坊主と縁があった」

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剣樹抄冲方丁

定価:本体1,500円+税発売日:2019年07月10日


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