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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

冲方 丁


ジャンル : #歴史・時代小説

『剣樹抄』(冲方丁 著)

 江戸の絵地図は、今年の大火後、庶民の避難を容易にするため幕府が普及させることになるが、このときはまだ一般的ではない。何より大半の建物が普請中で、これからの江戸の設計図に等しかった。幕閣かそれに近しい者が製作させたとしか思えない。

 阿部豊後守が言った。

「誰が誰の意向で作らせたかは、わかりません。これは、みざるの巳助が描いたものでしてな。ある武家屋敷に出入りする秋山が絵地図を広げるのを一見し、記憶をもとに描き出したのです」

 ただの一見でこれほどのものを描き写せるのか。思わず巳助をまじまじと見つめた。巳助がにっこり笑みを返した。その笑みが、これくらいは大したことがないといっていた。

 面食らうばかりである。何だか悔しくなって光國は話題を戻した。

「その秋山なにがしは、このようなものをどこで手に入れたのです?」

 阿部豊後守が、中山を見やった。

 中山がうなずいて光國の問いに応じた。

「秋山に渡した者がいます。壮玄烽士と称する僧形の軍学者で、湯島近辺に私塾を開き、主に神田駿河台の大名や旗本の家臣らが弟子入りしています。秋山は最近、その壮玄に腕を買われ、この絵地図を渡されたとか」

「腕とは……、火遁の術とやらの?」

 罔両子が、ぬっと光國に身を寄せた。

「そうですよ。火つけは、近頃の悪い浪人たちの大好物ですからね。これに印がありますでしょう?」

 光國は、絵地図の写しに目を戻した。言われて初めて、おかしな点に気づいた。あちこちに「十」という印がつけられている。本郷の本妙寺、小石川伝通院下の新鷹匠町、麹町五丁目。

 光國の脳裏でにわかにその印が意味をなした。

「火元か……!」

 阿部豊後守がおもてを厳しく引き締めた。子どもたちに対しては好々爺という感じだが、硬骨然とした顔はさすが老中と思わせるものだ。

「さよう。全て、正月に起こった火の出所なのです。拾人衆の調べによれば、この印を入れたのは、秋山でも壮玄でもありませぬ。壮玄が絵地図を手に入れたとき、すでに印があったとか。また、壮玄は湯島の自宅で、秋山が絵地図を人前で見せたことを叱責し、このように述べたそうです」

 阿部豊後守が、きかざるの亀一の腕に軽く触れた。亀一が白濁した目を開いて口にした。

「みなが火遁の修練を終え、ようやくというときに、一計が漏れては苦労が水の泡ではないか。この正雪絵図を何と考える。火をもって財を築く前におのれ自身が火あぶりになるぞ」

 光國は、諜者による城の守りとはこれかと思わせられるような諜報の数々に驚いたが、亀一が口にしたことに最も衝撃を受けた。

「“正雪絵図”だと……?」

 中山がうなずいた。細めた瞼の奥で、肉食獣めいた眼光がまたたいている。

「十中八九、由井正雪の名を冠した絵地図でしょう。かの浪人の自決後、江戸焼き討ちの法のみが生きながらえたとすれば……」

 光國の背を戦慄が走った。

 六年前、由比正雪とその仲間たちが企てたのは、江戸城の焼き討ちであった。目的は、まだ幼かった将軍家綱を拉致することだ。同様に京でも天皇を擁し、徳川幕府を倒す勅命を得る。そうして全国の浪人を糾合し、佐幕大名を一掃する。

 机上の空論による、荒唐無稽といっていい企てだが、実現しうる点が一つだけあった。江戸城を焼くという点だ。そしてそれはまさに今年正月、現実となった。市中全域が、そのための薪と化した。

 今の今まで考えたこともなかった。正月に連続した火の中でも、特に振袖火事は、多くの者にとって、いわば甚大な天災だ。そう思わねば巨大な喪失を受け入れることができない。だがもし、人の手による放火だったとしたら。

 光國の脳裏に大火の光景が次々によみがえった。光國もまた妻や家人を連れ、燃えゆく自邸から必死に避難したのである。逃げられず黒焦げの死体となった者たちが路傍に倒れていた。庶民が生活を営む町も、豪華さを競った大名屋敷も、万巻に記された学問の神髄も、何もかも焼き払われた。

 光國の十指が傍らの畳をつかみ、“めりめり”と音を立ててむしった。

 水戸家の男たちに共通する非常な怪力である。さながら虎が怒りに震えて爪を立てるようで、阿部豊後守をはじめ、みなが驚いて光國から身を引くほどの迫力であった。

 畳の破片を揉み潰しながら、光國は言った。

「お務め、承知つかまつった。この私は何をすればよいか、ご教示願います」

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冲方丁

定価:858円(税込)発売日:2021年10月06日

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