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縄文論

縄文論

安藤礼二

文學界11月号

出典 : #文學界

「文學界 11月号」(文藝春秋 編)

 直立二足歩行によって狩猟採集という生活手段を宿命づけられたことこそが人間を人間とした。頭脳の拡大の前提として、継続的な二足歩行、「走行」を可能にする直立二足歩行があったのである。人類は頭脳からではなく足から進化したのだ。バタイユと太郎が人類学を学んでいた当時としては、その遥かな起源は数十万年前(いわゆる北京原人およびジャワ原人の時代)、現在では数百万年前に位置づけられる。新石器革命の成果を現在に至るまで受け入れなかった社会(「未開」にして「野蛮」)の可能性を問うことは、新石器革命以前の社会(旧石器時代の狩猟採集社会)の可能性を問うことと等しい。だからこそ縄文であり、ラスコーであったのだ。数十万年(数百万年)の持続をもつ「旧石器」(打製石器)の狩猟採集社会か(ただし後期旧石器時代の石器作成技術の達成は「新石器」とほとんど見分けがつかない)、一万年に満たない持続しかもたない「新石器」(磨製石器)の農耕社会か。そのどちらを探求していくかに新たな芸術の可能性の有無も、また新たな社会の可能性の有無も秘められている。

 芸術の起源にして社会の起源、「旧石器」の狩猟採集社会に立ち還ることによって現在の芸術と社会の在り方を相対化し、新たな道を切り拓いていく。それが岡本太郎とジョルジュ・バタイユが意図していたことだった――当然のことながら現代においては、また当時においても、両者の「先史芸術」の理解について多くの疑問点や問題点が指摘されている。しかし、「旧石器」の狩猟採集社会にまでさかのぼって芸術の起源、社会の起源を考えるという方向性は間違っていないと私は強く思っている。太郎とバタイユ以降、縄文土器が体現する縄文時代(「新石器」の時代にまで生き延びた狩猟採集社会)の理解についても、ラスコーが体現する洞窟壁画(「旧石器」の狩猟採集社会の芸術表現)の理解についても、調査と研究は格段に深まった。しかし、それを芸術の問題として徹底的に考える表現者は、残念ながら二人以降あらわれていない。太郎とバタイユの試みをアップデートしてリニューアルする。私がこの「縄文論」で試みたいのは、ただそのことだけである。

文學界 11月号

2019年11月号 / 10月7日発売
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