死者を産むこと
鴻巣 妊娠出産は命をかけるというお話が出ましたが、母と子って、ある意味、お腹の中での果し合いから始まるんだと思うんです。着床してしばらくすると、体調が変化しますよね。危機を感じて、生命体の機能として押し出そうとする反応が起きるのだと聞いたことがあります。マザーシップというのはいったん子どもを〝拒絶〟し殺しかけて始まると、私は思っています。
まがまがしい言い方をすると、そのかわり子どもは母親のお腹の中で、母親を痛めつけながら育ち、栄養分を吸いとりながら育ち、出てくる時も激痛を引き起こしながら出てくる。そんなわけで、子どもが生まれてから「母殺し」をするのは当たり前だと思うんです。いつか私も未映子さんも子どもに殺されますね。もちろんメタフォリカルな意味だけど。
そこで、私が一番気になっているのは、逢沢潤なんです。最後の方で夏子に「僕の子どもを産んでもらえないだろうか」と、とても支配的な言い方をしますよね。逢沢も間違えたと思って「僕と子どもを」って即座に言い換える。「の」が「と」に変わって意味合いは変わったけど、相変わらず逢沢のほうは妊娠、出産、子育てラインに自分も乗るつもり、かかわるつもりでいませんか?
川上 そうそう、「あっ、やばっ」みたいな感じで言い直してますよね、焦ってるのを気づかれないように(笑)。あれはやっぱり男性的な文法というか、まずはああいう表現になるのだろうと思います。
逢沢には遺伝子上の父と育ての父がいます。彼は自分の子どもと会うことによって、見たことのない父親の何かに会う可能性がある。それしかもう自分の実の父にコミットする手段がない。そこは夏子と気持ちを同じにしているところがある。夏子はもう一度コミばあ、亡くなったおばあちゃんに会いたい。二人とも死者に会いたいというシンパシーが一致しています。
鴻巣 なるほど、夏子のほうは愛するコミばあに会いたいから子どもを産む面もあるんですね。
川上 そのようなほのかな動機があったけど、もちろん生まれてきた子どもは何も関係のない新しい子どもでしかない。他人です。
鴻巣 子どもを産むということと、死者、かつて生きていた人に会うということがループ的につながるのが、作品にもう一回り大きな遠近図を与えています。
川上 すでに死んでしまった親なり祖父母なりと、新しく生まれてくる子どもに因果はありますが、それをどう捉えるか。でも遊佐が言うように、そういう動機や関係を含めて、一つの流行として見られる可能性はありますよね。期間はわからないけれど、今は何かの途中であると。
妊娠し、生むことが当たり前ではなくなり、子どもは授かるのではなく、ある意味では作るものになりましたしね。
鴻巣 出生前診断の問題もありますね。
川上 自然と言えば、女にとっても妊娠や出産なんかしないほうが圧倒的に自然なわけです。生まなかった女性はその理由を問われるし、自分に問いつづける人もいます。一方、生んだ女性はある種の鈍さとともに主軸を子どもに移動させて、生んだことの動機を問われることもなく、社会的には「善さ」の威光を借りながらうやむやに霧散させてゆく。子の有無だけが人生の問題ではもちろんありませんが、わたしは自分にもあるこの鈍さを恥じています。
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