性交なき受精
川上 『夏物語』の逢沢と夏子は、肩に触るだけの接触で子どもを作ります。マイホームや車とおなじように、結婚や出産、それからいわゆる「大人になる」ということは、誰もが信じて経験したり実感することではなくなりつつあります。夏子には親になる条件はほとんど与えられていません。社会的にも心身的にも、「子ども」のまま子どもを生むことは可能なのか。でも、出産自体がいいことなのかどうかはさておき、「べつのしかた」を夏子は望みます。物語とは常に「べつのしかたで」というものを求めるもので、このようにあってしまった以外の別のあり方とか、この表現ではなく別の表現ってあるんじゃないか、生というのは意識的にせよ、無意識的にせよ、常に「べつのしかた」を求めているとも言えますね。
鴻巣 そこで、作中で問題になってくるのが、“別なしかた”をするのは正しいのか正しくないのかということですね。今回のオルタナティヴの選択はAIDですけど、子どもを作る権利と生殖コントロールの是非というのはどうしても倫理問題として出てくる。夏子は最初「相手のいない人間は、自分の子どもに会う権利って最初からないんでしょうか」と言う。そして「会ってみたい、会いたい、そして一緒に生きてみたい」と。私が気になるのは、この「みたい」という言い方。
川上 「してみたい」。「したい」とちょっと違うんですよね。
鴻巣 この「みたい」が曲者で。後になって出てくるのが、百合子の、勝手に賭けをして子どもを産むなという主張ですね。「みたい」はtryですよね。そこで百合子からの「『生まれてみなければわからない』っていう賭けは、いったい誰のための賭けなの?」という反論が出てくる。
だけど、もう一方の極にいる遊佐は、「子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」と。女の性欲も必要なくて、女の意志だけが関係あると断言します。「女が赤ん坊を、子どもを抱きしめたいと思うかどうか」が関係があると。「相手なんか誰でもいい。女が決めて、女が産むんだよ」という。産む権利をめぐる、対極にいる二人の原理主義の女性たちの雄叫びがある。この「権利」ということについてどう考えますか。
川上 権利は、正しさと分かちがたいものですよね。社会的には生殖の権利も認められている。でも、人は権利があるからってするわけじゃないですよね。そんな概念がなくても生物としての人間は繁殖をしつづける。
鴻巣 そうそう、『ヘヴン』でもいじめる側の「百瀬」が、「権利があるからって人が何かするわけじゃないよね。したいからするんだよ」というふうに言い放つところがありました。遊佐はこっちなんですよね。「権利とか何とか言ってんじゃないよ。女が意思を持ったら産んでいいんだよ。女が決めるんだ」って。
川上 やりたいと思ったらやればいいんだと。
鴻巣 遊佐は当然AIDも推奨派で、「どんどんやればいいじゃん」という方。むしろ男とのセックスだの結婚だの、そんな手続きは要らないと。
川上 それがないからあきらめるなんて馬鹿げているという考え方。要らなければ要らないでいいけど、気持ちがあるのに相手がいないからあきらめるなんていうことは馬鹿げたことであると言います。
鴻巣 その際に、産んで育てるのには男性は要らない、女性だけで十分だとしても、どうしても最初の最初に、精子と卵子がくっつく必要はある。緑子はそこからしてやめろと言っているわけですが。その部分でどうしても男性側の関与が必要になってしまいますね?
川上 精子というもの自体をどう捉えるかという問題ですよね。精子バンクに入っている精子にはもちろん男性が必要だけれども、女性がアクセスするのはあくまで精子そのものであって、特定の男性ではないですよね。
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