鴻巣 知りませんでしたが、反出生主義はショーペンハウアーや多くの思想家が唱えてきたものなのですね。それを今の若い人たちは「哲学」としてのみならず生活実感としても捉えていると川上さんに聞き、苦しい気持ちになっています。
生まれてくることは、生まれてくる本人には選択権がない。「生まれてからずっと自分やんか。生きているあいだはずっと人生がつづくから避難する場所がないとやっていられないんだ」といったことを夏子が言って、アルコールを飲む場面がありますよね。自分であることの不可避性、人間は自分の意識の外には出られないという、世界に対するどうしようもない無力な不可知、そういうものをすごく感じます。
川上 服は脱げても体は脱げない、出られない。自分が何か表現するとかしないとか以前に、物心ついた時からずっと感じていることです。その感覚って、いわゆる日本の家庭にあるようなソフトな様式としての宗教では解決されない。小説を書く時に基本的にある感受性としては、そういう違和が元からあると思います。
鴻巣 自分であることの違和感。
川上 自分であるというのは、人格とか性格とか属性を含みますけど、違和感を持っているのはゼロ次の自分というか、視点としての認識です。属性から発生するイシューももちろん切実ですが、どうもその前提として、存在してるということへの驚嘆がある。なぜこのような成り立ちをしているのか。で、このようにいずれ問うかもしれない存在を作った――と言えるのかどうかはわからないけれど、かかわりはした。それがどういうことなのか、生んだ人間としてわたしは考えつづけなければなりません。
生は災いか?
鴻巣 私は先ほども言いましたが、自分の生に関しては災いだという気持ちが抜きがたくあるんです。ただ、じゃあ自分の子どもはどうなんだろう。子どもも災いと思っているだろうか、とは考えます。
川上 災いだというのは昔から感じるんですか?
鴻巣 人並みの幸福感はもちますが、根本的にはそうですね。
川上 自分が自分のことを好きでないから子どもを作りたくないとおっしゃる人も多いですよね。ご自身の人生の延長で、出産するしないを考える。だから「すごく幸せだから私もお母さんになる」みたいなかたも多い。
鴻巣 子どもができて産んだ後からの感想ですけれど、自分の子どもって自分とは本当にかけ離れた人間なんです。寓話的な言い方ですが、私がお腹を貸して、そこをたまたま通り抜けて出てきて、うちでご飯食べて寝て、十何年かして出ていったな、というような。ある意味で他人感が強いのかもしれない。
川上 自分をまったくの根拠として存在している、というより、風が吹くように通り抜けていったような感覚なのかな。子どもというのは個人のものではなくて社会で育てるものだとか、世界に属するものだという考え方があります。そういう一種の間借り、そういう考えで子どもを生む人もいますよね。でもやっぱり、何を生んだことになるにせよ、現代では自己決定が介在する場合が多いですよね。そしてそれがどれくらいの意味を持つ出来事なのか、人によってまったく異なる。
鴻巣 『夏物語』には、そうした問いも含め、川上さんがこれまで扱ってきたものが包括的に入っている。そういう意味で、球体に近い感じがします。『ヘヴン』がこの辺を扱っていた、『すべて真夜中の恋人たち』がこの辺、『ウィステリアと三人の女たち』はこの辺、という。芸術作品にとって球体は究極の理想形です。
川上 すごくうれしいです。
鴻巣 生は災いであるという、ラディカリストの最たるものが善百合子。「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけない」というぐらい、生まれたことを否定することでかろうじて生きるという矛盾的な存在の仕方です。複雑なキャラクターだと思います。この人の受けた性的虐待、虐待を超えてしまっている経験が壮絶で、書き方の選択だと思いますけれども、そういう場面を直接書くのでもなく、彼女がとうとうと語るのでもなく、「性的虐待を受けた」と百合子は言っただけ、と書かれますね。その後、ほんの数行で、百合子の実際の体験をサラッと書く。あそこは凄みがありますね。どれだけ凄絶なことだったのかというのが逆に迫ってきました。
川上 夏子が「精子提供者に会ってきた」と言っただけですべてを理解して、「怪我はないの」とだけぽつりと尋ねる感じですよね。
鴻巣 あの精子提供者とのシーンも強烈でしたね。
川上 キャラクターを生成する時に、何をどのぐらい書けば、あるいはどの部分をどのぐらい書かなければ成立するのか。たとえば善百合子の発言が一言足りないだけで、あるいは多いだけで、彼女の在り方が全く変わってしまう。彼女は彼女にとって真だと思えることを話しますが、真であることと正しくあることは違うもので、正しさのニュアンスが強まってしまえばこの対話は失敗でした。
鴻巣 正しいことを言っていると主張しているように見えてしまったら駄目だ、というのは、作者としての川上さんが、でしょうか? それとも、登場人物が? すべての登場人物は惑いながら迷いながら言葉を発している?
川上 登場人物が原理主義的にふるまうのは良いのですが、ただ、それを作者がどう書くかという位相と、それを読者がどう読むかという、三つの位相があるんですね。この塩梅が少しでも崩れると、キャラクターは成立しないし、議論や交歓も成立しないのだと思います。
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