特集

神様以上

文: 杉本裕孝

文學界2月号

「文學界 2月号」(文藝春秋 編)

 それにしても僕の職場がよくわかったな。わたしはそこから歩いて一分と掛からない喫茶店に彼を連れていくと、顔馴染みの店主に珈琲を注文するなりテーブル越しに嘆声を吐いた。このようなアポなしの電撃訪問をそれとなく皮肉ったつもりが、彼は無邪気にわたしが彼の知る唯一のマスコミ関係者であることを誇らしげな顔をして言う。とは言っても弱小出版社だけどね、吹けば飛ぶような会社だよ、だいたい、いまの人は本を読まないから先行き不安で仕方がないよ。わたしはもう幾度口にしたかも知れないお決まりのフレーズを努めて呑気な口調で吐き出した。彼はそれを冗談と心得た様子で笑顔を崩さない。でもこうしてお互いに顔を合わせるのは結婚式以来だよなあ。わたしはあたまに浮かんだ感慨をそのまま口にする。それが彼自身の、それともわたし自身の、でなければ共通の友人の式であったかは判然としない。ちょうどあの頃は仲間内で立て続けに祝い合うというまさに結婚ラッシュの最中で、彼の式に参列したことを憶えてはいるが、それがどこで催されたのか引き出物が何だったのか結婚相手の顔さえも思い出そうとすると複数のイメージが分かち難くぼんやり重なり合っていつまでも焦点を結ぼうとしない。テーブルの向こうで彼は遠くをみるように感慨深げに相槌を打ち、それから、独り身に戻った旨をさらりと打ち明けた。昨日今日のことではないのだろう。その声や顔に陰鬱なものはみとめられない。この訪問の目的が少なくとも夫婦関係の悩み相談ではなさそうであることを知って多少は気が楽になる。だいたいさ、十字架のまえで愛を誓うだなんて馴れないことをすれば神様だってご立腹されるよなあ? わたしは離婚した友人から以前酒の席で聞かされたことのある台詞をそのまま拝借した。すると彼は彼で自分の場合はそればかりか神前式までやったものだから神様たちもきっと余計に混乱なさったのだろうなどとわたしのあるいはわたしの友人のユーモアにユーモアを重ねて思わぬ笑いを誘った。そうして、ありきたりの冗談話にひとしきり笑い合ったところで珈琲が運ばれる。沈黙が続いた。そういえば、たしかお前は実家の商売を継いだんだったよな、あれは、えっと……。仕方なくこちらから水を向けると、彼は猫舌なのかソーサに載せられたスプーンでカップのなかの珈琲をブラックのまま頻りに掻き回していた手を止めて、わたしの言葉を引き取った。曰く、大学を卒業してしばらくは実家の酒屋を手伝っていたが、年々実入りが寂しくなってくる、界隈の商店もひとつまたひとつ消えていく、そこで数年前に看板をおろし、全国チェーンのコンビニエンスストアに鞍替えした。今日も東京の本部で定期的に開催される研修に参加した足でわたしを訪ねたということらしい。コンビニのオーナーか、凄いなあ。わたしがもちあげると、彼は店頭に出突っ張りのしがない店長であり顧客以前に従業員を集めるところから苦戦していると謙遜してみせる。それでもオーナーには変わりがない、人を雇う立場だなんてほんとに羨ましいよ。わたしはそうやって彼を褒めそやしながらも、少し以前から苛立ちとももどかしさともつかないものを仄かに覚え始めていた。さりげなく腕の時計に目を落とすと、店に来て既に二十分が経過している。わたしはテーブルからカップをもちあげて珈琲を啜った。既に温い。酸味の強い芳香を鼻から吐き出すと、思い切って口を開く。金なら貸さないよ。こっちも住宅ローンの返済で余裕がないんだ。わたしは出来る限り低音を効かせて彼を睨みつける。壺も買わない。宗教の勧誘なら御断りだよ。更に畳みかけると、彼は虚を衝かれたように視点をテーブルのうえの宙空に固めた。……冗談だよ。わたしが呟くともなく吐き出すと、彼は強張らせていたからだから力を抜くようにしてふっと軽い笑声をこぼしながら首を横に振った。それから隣の椅子に載せていたブリーフケースのなかに手を差し入れると、おもむろに何やらそこから取り出した。

文學界 2月号

2020年2月号 / 1月7日発売
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