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『海を破る者』今村翔吾――立ち読み

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

別冊文藝春秋 電子版30号(2020年3月号)

文藝春秋・編

別冊文藝春秋 電子版30号(2020年3月号)

文藝春秋・編

くわしく
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「別冊文藝春秋 電子版30号」(文藝春秋 編)

「すまないな」

 何も知らずに集まった民が些か不憫に思えて、口から微かに声が零れ出た。

「如何なさいました?」

 余程耳聡いようで、賑わいの中でも聞きつけて先ほどの弟子が尋ねてきた。いや、生来真面目な性質で、己の一言一句を聞き逃すまいと努めているのかもしれない。

「いや、何でもない」

 苦く頬を綻ばせて、増え続ける衆を見渡す。

 信心から駆け付けて来た者は、すでにこちらを拝みつつ念仏を口中で転がしている。その姿を尊く思う。一方で、別に何も知らずに集まった者たちを蔑む心はもとより無い。むしろ皆が好奇に目を輝かせているのを見ると、これこそが人が人たる所以ではないかと心が躍るのだ。

 未知のものに訳もなく惹かれる心。これは人が生まれながらに持っているものではないか。その証左に、集まって来た者たちに老若男女の境は見られない。身分も様々で、武士やその妻女、行商、百姓、他宗と思しき僧の姿まであった。

 一遍は若くして、人というものが解らなくなった。

 己の一族が骨肉の争いをし、それを懸命に止めようとした父が渦中に巻き込まれて死んだのだ。血を分けた肉親すら殺し合う人という生き物に絶望し、全てを放り出して修行の旅に出た。

 そして三年前、信濃国佐久郡伴野庄小田切の地で、

 ――踊念仏。

 なるものを始めた。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版30号(2020年3月号)
文藝春秋・編

発売日:2020年02月20日

プレゼント
  • 『赤毛のアン論』松本侑子・著

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