この短編集──短編ではなく、あきらかな掌編もありますが──には、いくつかのおかしな作品が含まれています。「おかしな」の意味には、さまざまな要素があり、ここで云う「おかしな」は、不可解なもの、ともすれば、まるで意味のないものを指しています。自分で書いておいて、こうしたことを云うのも、それこそおかしな話ですが、自分にも理解しがたいところがあり、それを「解説」の名のもとに無理に説明しようとすると、より、おかしなことになってしまうような気がします。
というより、小説というのは、そうした説明しがたいものを孕んでいるべきだと、どこか、そう思っています。
説明できないがゆえに、説明文ではなく小説というスタイルをとっているわけで、要約して説明できるのであれば、もとより小説など書く必要もありません。
小説を書くことによって、自分の中から這い出てきた得体の知れないものと出会いたいのです。そいつを、どうにかして言葉でつかまえたい。つかまえて、自分なりの観察を記したい。
いま、「自分の中から」と書きましたが、この「自分」は、云うまでもなく「世界」や「社会」などと呼ばれているものが関与した「自分」であると思われます。つまりは、「自分」なる媒介物を通して、この世界の中にある得体の知れないもの──不可解なもの──を抽出しているのです。