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歴史に残る「哲学の古典」にして「究極のビジネス書」

歴史に残る「哲学の古典」にして「究極のビジネス書」

文:佐藤 優 (作家・元外務省主任分析官)

『勉強の哲学』(千葉 雅也)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『勉強の哲学』(千葉 雅也)

〈勉強を深めることで、これまでのノリでできた「バカなこと」がいったんできなくなります。「昔はバカやったよなー」というふうに、昔のノリが失われる。全体的に、人生の勢いがしぼんでしまう時期に入るかもしれません。しかし、その先には「来たるべきバカ」に変身する可能性が開けているのです。この本は、そこへの道のりをガイドするものです。

 

 勉強の目的とは、これまでとは違うバカになることなのです。

 その前段階として、これまでのようなバカができなくなる段階がある〉(15頁)

 

 グリボエドフは、これまでとは違うバカになった。だから死後200年近くが経っても彼のテキストが生き残っているのだ。

 千葉氏は、勉強にあたっては、言葉の使い方が死活的に重要になると考える。

 

自由になる、つまり環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。

 言語をそれ自体として操作する自分、それこそが、脱環境的な、脱洗脳的な、もう一人の自分である。言語への「わざとの意識」をもつことで、そのような第二の自分を生成する。

 地に足が着いていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。

 

 言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。

 わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。

 このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。自分のあり方が、言語それ自体の次元に偏っていて、言語が行為を上回っている人になるということです。それは言い換えれば、言葉遊び的な態度で言語に関わるという意識をつねにもつことなのです。

 深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。

 言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である。あえてノリが悪い語りの方へ。あるいは、場違いな言葉遊びの方へ。

 勉強はそのように、言語偏重の方向へ行くことで深まるのです〉(55~56頁)

文春文庫
勉強の哲学
来たるべきバカのために 増補版
千葉雅也

定価:770円(税込)発売日:2020年03月10日

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