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ジョン・フォード論 第一章-II 樹木

ジョン・フォード論 第一章-II 樹木

文:蓮實 重彦

文學界4月号

出典 : #文學界

「文學界 4月号」(文藝春秋 編)

 あたかもその音楽にうながされたかのように、川を背にして立っている二人は鬱蒼と生い茂る木の枝に覆われた川岸の道をゆっくりと歩き始めるのだが、この移動撮影が何とも素晴らしい。そして、斜めに伸びた黒い木の枝に空が覆われたあたりで歩みをとめると、親しげに言葉をかわしあっていた二人はふとだまりこみ、やがて女は画面からそっと姿を消す。一人とり残されたヘンリー・フォンダは、これから進むべき道を決めたぞといわんばかりに、その黒々とした木の枝に覆われた空間で石を拾いあげ、川に向けて思いきり投げ入れる。

 この瞬間の彼の仕草については、「フォードと投げること」の章で改めて触れることにもなろうが、不意に水面に拡がる波紋につれて画面が変わり、流氷が音をたてて流れている冬の川の光景がオーヴァーラップして現れることだけには、ぜひとも触れておかざるをえない。季節はいきなり極寒の冬となり、地面は雪におおわれ、厚い衣服をまとったフォンダが花束を持ち、ひとつの墓の前に立つ。この驚くべき時間と季節との不意の転換は、いずれも太い木の幹のもとで出会った二人が、ついに思いを遂げられなかったことを示唆しているのだが、雪におおわれた女の墓の前に立つ男は、持ってきた花を供えながら、自分は法律をやるぞと決意するのである。

 ポーリン・ムーア Pauline Moore が演じているこの赤毛のアン・ラトレッジ Ann Rutledge と呼ばれる魅力的な若い女性は、どうやら史的な事実に基づいた人物らしい。実際の彼女が太い木の幹に誘われるようにリンカーンに近づいたとはとても思えないが、このフィクションでの彼女は、明らかに太い木の幹の誘惑に惹きつけられるようにこの作品に姿を見せている。そして、葉もたわわにおい茂った黒い木の枝に保護されているかのようにエイブのかたわらを歩みながら、ふと画面から姿を消す。この樹木の氾濫ともいうべきゆるやかな光景こそ、フォードならではの演出の妙によるものだといえる。いずれにせよ、まず太い木の幹があり、それからたわわに葉の繁る黒い木の枝に保護されるかのように女が「エイブ」と声をかけ、みちたりた風情で男とふたりして川辺の道をゆっくりと歩み、やがて女は若者から離れてゆく。そして、「投げる」というきわめつけのフォード的な身振りをフォンダが演じてみせるという三つの段階が、この場面には典型的に描かれているのだが、この三つの段階の推移をしかと記憶しておくことにする。

『若き日のリンカン』(Young Mr. Lincoln, 1939)
文學界 4月号

2020年4月号 / 3月6日発売
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