特集

げいさい 短期集中連載 第二回

文: 会田 誠

文學界4月号

「文學界 4月号」(文藝春秋 編)

3

『ねこや』に話を戻そう。

 佐知子たちのグループは僕ら四人より30分くらい遅れてやってきた。しかしその直前に、ちょっと印象的な一幕があった。

 とりとめもなく予備校の思い出話をしていて、何かの話題が一段落し、しばらく沈黙が生まれた時、熊澤さんが突然「じ……」と言葉を発した。

「自由に……」

 あまりに唐突だったので、三人とも驚いて彼女の方を見た。彼女はまっすぐ前をむいたまま「描きなさい……」と続けた。

 僕はまずはなんのことかわからなかったけれど、しばらくして『はっ』と気づいた。

「ああ! 芸大二次の、油絵の試験問題ですね」

 熊澤さんは一回だけしっかりと頷いた。

 そういえばここにいる四人のうち、芸大の実技一次試験のデッサンに合格して、二次試験の油彩画に駒を進めたのは、僕と熊澤さんだけだった。アリアスが面白そうに言った。

「知ってるー、芸大の油ってそうゆう出題だったんでしょー、モチーフも何もなくて、ただその言葉だけってー。なんなのよ『自由に描きなさい』ってー、いきなり過ぎだよねー」

 ようやく僕は気づいた――なんで熊澤さんがそのことを突然言ったのか。本当は10分以上前に言いたかったのだけれど、会話に割り込むのが苦手で、今遅れて言ったのだ。つまり「今日見た熊澤さんの展示――あの絵と似ているかな……」とか「美大に入ってからのびのび描くべき絵を、美大に入る前に描いちゃった」とか僕が言った、あのあたりのタイミングで言いたかったことなのだ。他の話題に移ってからも、ずっとそのことを考えていたのだろう。熊澤さんはそういう人だった。

文學界 4月号

2020年4月号 / 3月6日発売
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