別冊文藝春秋で連載していた北尾トロさんのエッセイ「今晩泊めてくれないか 東京ヤドカリ漂流記」を1冊の電子書籍にまとめ、5月29日(金)に主要電子書店で配信します。
コミカルで実用的な「お泊まり」エッセイ。その冒頭部分を公開します。還暦間近のライター・トロさんは、なぜ知人友人の家を転々と寝泊りする「ヤドカリ生活」を始めたのか?
寝泊まり厳禁!
古いビルの三階に民宿ミヤサカはあった。僕が勝手にそう呼ぼうと決めただけで、実際は年下の友人・宮坂くんが住んでいる1DKの部屋である。ドアを開けると脱いだままの靴が何足も転がっているのが、いかにも独身男の一人暮らしだ。僕は今日から二晩、ここに泊めてもらうことになっていた。
「ここっす。まあ上がってくださいよ」
電気をつけ、両手をだらりと下げたまま宮坂はこっちを見た。僕がカートを置いて広げ、寝袋を出そうとすると、マットレスがあるという。
「ちなみに布団もあります。こたつ布団ですが。そしてこれが、うう、ボクが大事にしているクッションを特別に貸しましょう」
奥の部屋から使い込まれた細長いクッションを投げてきた。
「さては彼女にプレゼントされたのか」
「なんすか彼女って。自分で買いましたよ。なんすかプレゼントって」
わかったわかった、つい口にしただけで深い意味はないのだ。でもまあ、なかなかいい部屋じゃないか。
「山手線の内側、駅から徒歩六分、この広さで六万円台は出物です。粘りに粘って探し当てました」
そう言うと、宮坂は服を素早く着替え、パソコンの電源を入れて座卓に腰を下ろした。ゲームをする態勢だ。その向こうに布団が見える。となると、僕の寝場所はキッチンだ。マンガと本が詰め込まれた数本の本棚の間に小さなテーブルを寄せてスペースを作り、マットレスを敷く。宮坂は大のマンガ好きで、奥の部屋にも何本か本棚が立っているのが見えた。
宮坂は背中を向けたままゲームに興じ、こちらを見ようとしない。さっきまでいた居酒屋で、宿泊代の代わりに飲み代を払うと言ったら大喜びしていたのに、部屋に入った途端、別人のように静かになった。気分が悪いとかそういうことじゃなく、どうしたらいいかわからなくなっている感じだ。
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