書評

著者がくり返し向き合ってきたテーマをモチーフに、恋愛小説を超えた作品

文: 村山 由佳 (作家)

『奈緒と私の楽園』(藤田 宜永)

『奈緒と私の楽園』(藤田 宜永)

 そんな澱んだ池のような彼の日常に、突然、小さな石ころが投げ入れられる。石ころの名は川原奈緒。二十九歳の彼女はある日、見ず知らずの塩原の家を訪ねてくると、子どもの頃に失踪した母親を捜しているので協力して欲しいと言う。

 奈緒が、塩原ならば母親の消息を知っているのではないかと思うに至った経緯が面白い。

物語は謎解きの側面も見せながら転がり始める。偶然の背後にいくつもの必然が積み重なっており、感情のこじれてしまったそれぞれの両親や家族までも含めて、人間の脆さやどうしようもなさといったものが行間のそこかしこから滲み出す。

 行きがかり上、母親捜しに付き合う羽目になった塩原だが、世代の差か価値観の相違か、奈緒という若い女がさっぱり理解できない。自分を棄てた母親を、どうして当然のように愛せるのか。

 彼自身は、ついぞ母親とうまくいかなかった。子供時代に絵本を読んでもらったことさえないと話すと――ここがじつに象徴的なのだが――、

「子供に絵本を読んで聞かせない母親なんていないと思いますけど」

 奈緒は心の底から驚いた様子で、塩原のことを「可哀想」と宣う。

「絵本も読んでもらえなかった子供ってあまりにも寂しすぎます」

 これほど年若な女から、今さらそのようなことを哀れまれるとは……と唖然とする塩原はしかし、だんだん奈緒のことが気になり始めるのだ。

奈緒と私の楽園藤田宜永

定価:本体720円+税発売日:2020年06月09日


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