四月一日
杭州に、水でできた人の話がある。なにかの全集の月報に書いてあるその文章を読んでいた。茶色っぽい紙で、新字体だったけれど、文章が読みにくかった。道を歩いていると、唐子絵のような子が民家の脇にいる。軒先に近づいたら、その子がむかしながらの透明な丸い金魚鉢に、赤ちゃんを入れている。ぷかぷか浮いているのをのぞくと、赤ちゃんじゃなくて、ピンク色のすべすべしたなにかだった。らんちゅうやベタみたい。親指くらいの大きさで、ぷっくりしていて、ピンク色の葡萄にもみえる。私は金魚鉢のなかからそれを手で掬うと、つるんと、赤ちゃんみたいな実を、吸った。くちのなかで噛む前に果皮がはじけて、水羊羹のような、うすあまい味がして、おいしかった。もう一つの金魚鉢にも、赤ちゃんがいる。赤ちゃんは美青年になっていて、互いに目をみあわせると、ふたりの皮膚がはじけて、全部水になってどこかに流れていってしまった。
起きたら、宮藤官九郎がコロナにかかっていた。夫の康太郎さんに、宮藤官九郎って誰だっけ? と言われて、まだ夢のことをぼんやり思っていたので、戸惑って、細い人、という雑な言い方になった。わかったのかは不明。携帯電話を寝室に置いて眠るのをやめているのだけれど、漫画をKindleで買って読むようになってから、ベッドに持ち込むことがふえてしまった。いまは「かげきしょうじょ!!」読んでいる。人が水になる話は日本の絵巻物で読んだことがある。よくある話だ。でも気になって「杭州 水 説話」などで検索したがでてこなかった。杭州の鳳凰山のお茶を飲みに行ってみたいので、夢の中でも行かれたとしたら嬉しい。鳳凰山のジャスミン茶は朝摘みのジャスミンを茶葉にかぶせてたっぷり蒸しては花をとりかえる。それを一週間続ける。山の上では地元の人たちがお茶を飲むために集まっていて、ひびの入った茶器でお茶を飲む。歩いている人にもふるまってくれる。さっきの夢は水子だったのかな。京都のゑんま堂の一角にあった水子供養の敷地を思いだした。私は数年前に一度流産をしているのだけれどそのことも思いだした。このあいだ友達夫婦とビデオチャットをしているとき、早く二人も子供つくろうよ、と言われた。オッケー、つくるね、とは言えなかった。遠戚が妊娠中なのだけれど、コロナウイルスへの不安から殺気立っていて、家の近くの公園で、K病院の息子さんたちがマスクもしないで遊んでいる、と怒っていた。子供にマスクをつけるのって難しいのではないだろうか。