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作家の羽休み――「第9回:花の香」

作家の羽休み――「第9回:花の香」

阿部 智里


ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 自然生まれ自然育ちみたいなものでしたので、大学入学を機に上京したばかりの頃は「コンクリートジャングルは嫌だよぉ」などと思っていました。ところが、暮らしているうちに、東京には東京の緑の面白さがあることに気付かされました。

 東京にやって来た最初の梅雨、ちょうど今頃のことです。

 当時私がお世話になっていた女子寮は、大学まで徒歩で約30分かかる距離にありました。通学路は昔ながらの古い町並みが残っており、銭湯やら小さな神社などを横目に大学に向かっていると、ふと、群馬で嗅いだのと同じような――いや、街中であるがゆえに、それよりもっと強く感じられる芳香が漂って来ました。

 梔子の甘い香りです。

 あれ、どこかで咲いているのかな、と思えども授業の時間が迫っていてその時は通り過ぎてしまったのですが、帰り道では花を探して帰ることにしました。

 それまでは大学のカリキュラムに慣れるのに必死で、早足で通り過ぎながら「どこも塀に囲まれて面白みがない」などと思い込んでいました。しかし、梔子を探すためにひとたび意識を外に向けてみると、それぞれのお宅の創意工夫が目に飛び込んできました。

 塀の隙間からたっぷりと重そうな紫陽花が顔を出し、軒先に置かれた水の入った鉢からは蓮のつぼみが伸びています。夏椿の鉢植えがさりげなく置かれ、群馬では見たことがない薄紫色の星形の花がたくさん咲いたつる草が、格子塀を彩っていました。

 遠くから、ちりんちりん、と爽やかなガラスの風鈴の音が聞こえた時、東京人の夏の楽しみを少しだけおすそ分けしてもらったような気持ちになったのです。

 探していた梔子の花は、一本奥まった路地裏の、家と家の間にそっと植えられていました。咲いたばかりの梔子の花は淀んだところのない清らかな白で、つつましやかな見た目に反して、その香りは非常に濃厚です。

 好んで梔子を植えた趣味の良い誰かと、梔子の花そのものに、私の知らなかった東京の一面を教えてもらいました。梅雨時になると思い出す、大学時代の思い出です。

阿部さんの大学時代の通学路にあった小さなお社(文藝春秋写真部/2017年撮影)

©阿部智里

阿部智里(あべ・ちさと) 1991年群馬県生まれ。2012年早稲田大学文化構想学部在学中、史上最年少の20歳で松本清張賞を受賞。17年早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。デビュー作から続く著書「八咫烏シリーズ」は累計130万部を越える大ベストセラーに。松崎夏未氏が『烏に単は似合わない』をWEB&アプリ「コミックDAYS」(講談社)ほかで漫画連載。19年『発現』(NHK出版)刊行。現在は「八咫烏シリーズ」第2部『楽園の烏』を執筆中。

公式Twitter
https://twitter.com/yatagarasu_abc

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