そこで、今回、新書を執筆するにあたり、『信長公記』を自分なりに読み込んでみた。参考にしたのは、ちくま学芸文庫の『現代語訳 信長公記(全)』である。
すると、奇妙な空白期間があることに気づいた。
天正八年の八月十八日から、同年の十二月晦日までの約四ヶ月半の信長の記載がごっそり抜けているのだ。正確を期すると、その期間の『信長公記』の記載が存在しないわけではない。
徳川家康の高天神城攻めが順調に進んでいることが記録されているし、その前の天正八年十一月十七日には、北陸の軍団長の柴田勝家の活躍も記録されている。一応、それに対する「信長公のご満足はひとしおであった」という信長についての記述はある。
だが、これまでの信長の濃密な行動描写に比べると、あまりにも少ない。一体、これはどういうことだろうか。
『織豊期主要人物居所集成』は、織田信長が何年何月何日どこにいたか『信長公記』だけでなく貴族の日記などからも追跡したものだ。
以下は、天正八年八月十八日から十二月晦日までの空白時の記録である。
八月二十三日 上洛 「兼見卿記」
八月二十四~二十六日 在京 「兼見卿記」「お湯殿の上の日記」
八月二十八日 京都発安土へ 「兼見卿記」
九月十九日 安土在 「宗及茶湯日記 他会記」
十月十四日頃 安土在 「お湯殿の上の日記」
十一月十七日 安土在 「信長公記」
十二月二十七日頃 安土在 「お湯殿の上の日記」
どうやらこの間、信長はほとんど安土にいたようである。約四ヶ月半の間、安土で何をしていたのか。距離的に近い京に出張した可能性は低い。信長が上洛すると、貴族たちが出迎えにいくことが多い。牛一が『信長公記』に書き漏らしていたとしても、貴族の日記などからその動向が探れるはずだ。