それからしばし歳月が流れて第参部が上梓されたとき、冒頭で「三国志」のあるDVDボックスの感想を述べていく「語り手」が、あのときの私の心境をいみじくも代弁してくれていた。〈ここで申し上げておかねばならないのだが、わたしはサンゴクシシャンになれない人間となっていることが、はっきりと分かってしまった〉と。
〈『三国志』随一の名場面、ほんとうは真面目で真剣なシーンであるにもかかわらず、孔明が姿を現した瞬間、思わず爆笑してしまったのである。飯を食っていなくてよかった。製作者の方々、許して下さい。決して役者さんや演出がいけないのではなく、わたしが悪いのである。
(ああ、わたしは今後、もはや普通に『三国志』を楽しめる身体ではなくなった)
と我ながら嘆くのであった〉
読者を〈もはや普通に『三国志』を楽しめない身体〉にしてしまう魔力──語り手のこの言葉は、私が本書を一つの「体験」であると感じた理由を見事に説明していた。
ところで、酒見版「三国志」の大きな魅力の一つは、何といってもこの「語り手」の存在にあるだろう。
小説の語り手は自ら頻繁に登場しては、正史「三國志」や「三国志演義」、さらには映画や漫画に登場する逸話や〈裏設定〉なるものまで取り上げ、ときに豪快なツッコミを入れて舞台を軽やかに展開させていく。
本書でも何度か繰り返し書かれているように、「三國志」はそもそも西晋の歴史家・陳寿が編纂した歴史書である。蜀に仕えていた陳寿にとっては「一昔前」の出来事であり、そして、彼の用いなかった史料も含めて取り上げ、後に注釈を付けたのが裴松之だった。信憑性の薄い怪しげな史料や逸話を敢えて紹介し、筆誅のように切って捨てる裴松之の記述法を、語り手は「ツっ込みキレ結び」と名付けている。それによって「三國志」が面白おかしい読み物として成立するようになった、と。
いわば羅貫中の『三国志演義』を始めとする多種多様な「三国志」を俎上に載せながら、裴松之のこの手法を現代において再現したのが酒見版「三国志」といえるのではないだろうか。「三国志」をめぐる時代を超えたあらゆる伝説が、博覧強記な「語り手」に大きく抱え込まれ、独自の歴史観とともに新しい物語として提示されていくのだから。
その過程に身を委ねるうち、読者である私は「三国志」という物語がなぜ熱烈に読み継がれてきたのか、その魅力の源泉とは何か、という二重三重の秘密に触れているような気持になっていった。そして、その語り手の作り出す舞台の上で活き活きと動き回る英雄たちのなんと魅力的なことか。
「三国志」という物語の歴史そのものを混ぜ合わせて攪拌し、全く新しい世界を描いてみせた『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、いわば数々の「三国志」物語の山脈を見渡す独立峰のような作品だ、と私は思う。本書の最終巻をついに読み終えたとき、この山に登らなければ決して見ることのかなわなかった光景が、遠くまで広がっているように感じたからである。
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