さて、完結編である第伍部では、孔明の南征と五度の北伐、五丈原での最期が描かれる。関羽や張飛、そして、劉備はすでに世を去ったが、それでも正史「三國志」と小説「三国志」の間を行き来する語り手の絶妙な舞台回しも相俟って、物語のテンションはしっかりと維持される。孟獲を敬服させた「七擒七縦」のエピソードや、泣いて馬謖を斬る「街亭の戦い」など見せ場も満載である。
ただ、人材不足の中で奮闘する孔明の背中には、やはり一抹の寂しさが漂うのも確かだ。末席の汚し合いで部屋の隅に黒山の人だかりができる狂乱の飲み会や、軍師に策を丸投げしたくせに、「忍びぬぅ!」と唐突に義心を発動させる“サク中”劉備の「ダッーハハハ」という快活な笑い声も、すでに遠いものとなった。そんななか、主君の遺言とともに蜀という国を一身に背負い、どうにか強大な魏と対峙しようとする孔明の姿には胸を衝かれるものがあった。
とりわけ「死せる孔明 生ける仲達を走らす」のクライマックスへと向かう第五次北伐の最中──孔明は三顧の礼以来の〈愉快な日々〉を思い返して劉備の廟で祈る。先帝とは如何なる人であったのかと問う姜維に向けて、「ときどき、しんみりといい顔をする人でした」と言葉少なに語るシーンなどには、心を打たれずにはいられない。そんなふうに妙に湿っぽい気持になったのは、私が著者の描いてきた個性的な英雄たちを、やはり愛してしまっていたからに違いない。
思えば、自分が酒見版「三国志」の世界にすっかりやられてしまっていることを自覚したのは、第弐部が上梓された翌年、映画『レッドクリフ』のパートI・IIを年を跨いで映画館に観に行ったときのことだった。
『M:I-2』でも知られる巨匠ジョン・ウー監督が、一〇〇億円の製作費をかけて赤壁の戦いを描いた超大作。周瑜をトニー・レオンが演じ、日本からも孔明役に金城武が配役された大巨編を映画館で観始めてすぐ、私は混乱した。三国志の様々な名場面がスクリーンに映し出される度、自分の頭に次々と過るのが酒見版「三国志」の武将たちの姿だったからだ。
草鞋を編みながらしんみりといい顔をする劉備玄徳、敵を掻き分けながら阿斗を救う趙雲に、殺人マシーンと化すアル中の張飛、天元に白駒を叩きつけ髭を震わせる“『春秋左氏伝』原理主義者”の関羽。曹操はその関羽をねっとりと見つめる人材マニアであり、孫権率いる呉の強面たちは広島の極道にどうしても見えてしまう。
そして、白羽扇を口元に翳して不敵な表情を浮かべる孔明。金城武演じるカッコ良すぎる臥竜に対して、宇宙を語る変態軍師的な胡散臭さを抱いてしまうに至ったところで私は覚った。自分はこの先に始まるはずの赤壁の戦いをめぐるドラマを、もはや酒見版「三国志」の世界観に影響されながらしか観ることができないのだ、と。
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