本書の主人公、大友義鎮(よししげ)、法名宗麟は、享禄三(一五三〇)年に義鑑(よしあき)の嫡男として豊後府内(大分市)に生まれた。幼名「塩法師丸」として幼年期を過ごし、一〇歳の天文八(一五三九)年に元服、翌年に室町幕府一二代将軍足利義晴から偏諱(へんき)を受けて「義鎮」を名乗った。その後、三三歳の永禄五(一五六二)年に入道して「宗麟」を号し、以降、晩年の一〇年間は、四九歳で「三非斎」、五〇歳で「円斎」、五二歳で「府蘭(ふらん)」、五七歳で「宗滴(そうてき)」など、目まぐるしく署名を変えたことが、残存する発給文書から明らかである。
そのなかで、本書は、「義鎮」期および「宗麟」を名乗った四〇歳代までに主たる焦点を当てた若々しい物語になっている。史実に照らし合わせると、一一歳で将軍偏諱を授かり、一二歳の天文一〇(一五四一)年には、府内の港に唐船が着岸して、二八〇名もの明人が上陸するのを目撃したはずである。
一五~一八歳の天文一三~一六(一五四四~四七)年には、父であり先代当主である義鑑による大名館(やかた)や大名蔵の大規模建設事業を目の当たりにした。そして、家督相続をめぐる家臣団の騒動のなか義鑑が殺害されるという、人生で最初の衝撃事件を経験しながら父の跡を継いだのが、二一歳の時である。
その後、二二歳でフランシスコ・ザビエル(四六歳)と面会し、二三歳で京都大徳寺に創建した瑞峯院の襖絵を土佐光茂と狩野元信・松栄父子に依頼、同時期に豊予海峡に面する豊後臼杵に海城(うみじろ)として丹生島(にうじま)城の築城にも取りかかる。
弘治二(一五五六)年、二七歳時には、倭寇禁圧要請のために来日した大明副使蔣洲(しょうしゅう)を館に受け入れ接待・会合し、倭寇活動の取り締まり要請を受諾するとともに、蔣洲の帰国に際しては、大内家を継いだ弟晴英(大内義長)とともに「日本国王」印影国書を携えた遣明使を中国に派遣した。
三〇歳の永禄二(一五五九)年には、室町幕府から認められた守護職が豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六カ国に拡大し、九州全体の統轄者を意味する「九州探題職」にも補せられた。
地域社会の守護公権力として家臣団を統率しながら拡大していく領国を統治する父義鑑の諸政策を見ながら成長し、その父の死と家督継承の衝撃を乗り越え、京都の中央政権の動向を見据えながら、北部九州に拡大した領土と領海の統治に邁進し、ヨーロッパから訪れた未知なる宗教の宣教師や、外交交渉のために来日したアジアの宗主国からの国家使節に果敢に向き合ったこの時期は、本書主人公の人格がかたち作られて、その人間性が確立していく過程そのものだったに違いない。
さて、これまでの研究者や小説家が描いた大友義鎮像は、「豊後大友家二一代当主として、その全盛期には六カ国守護兼九州探題として日本と東アジアの史的展開上大きな勢力を保持したが、晩年にキリスト教を狂信したために領国経営を破綻させ、大友家を滅亡へと導いた」とするのが一般的である。
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