「作品内作品」
もう一つ、『猫を棄てる』と『一人称単数』の間に見られる顕著な呼応関係は、「作品内作品」とでも呼ぶべき手法である。村上の父、千秋は若いころから俳句を作ることに熱心で、俳句雑誌に掲載された父の句を春樹は掘り起こして、『猫を棄てる』の中で紹介している。
兵にして僧なり月に合掌す(西山専門学校の俳句雑誌)
鹿寄せて唄ひてヒトラユーゲント(1940年10月)
をのこわれ二たび御盾に国の秋(1941年9月)
私はこれらの句について、俳句作品として傑作であるかどうか、判断ができる立場にはないが、僧でありながら、戦争に駆り出された繊細な若者の気分が伝わり、また当時の時代の雰囲気を反映した緊張感のある句であると思う。
それに対して、『一人称単数』でも様々な「作品内作品」が突出している。「石のまくらに」で「僕」が出会った女性は短歌を作っていて、彼女の歌が何首か作中で、解釈とともに紹介されている。私は短歌にも素養のない人間なので、評価する自信はないのだが、率直なところ、村上作品の中に出てくるのでなければ、稚拙な作品として読み捨てられるようなものではないか。しかし、この種の架空の作者による「作品内作品」の挿入というポストモダン的手法は、よく知られているように『風の歌を聴け』以来お馴染みのものであり、ここでも「ちほ」という女性の、死へ傾斜していく内面をさぐる手がかりとしていわば無防備にさらけ出されて、それが作品の有機的な模様として組み込まれているのである。例えば――
やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく
あじさいの根もとに/六月の水
たち切るも/たち切られるも/石のまくら
うなじつければ/ほら、塵となる
また「「ヤクルト・スワローズ詩集」」には、その表題が示す通り、「僕」自身が書いたとされるヤクルト・スワローズに関する詩がいくつも挿入されている。「僕」はヤクルトの試合を観戦しているとき、暇つぶしに「詩のようなもの」をノートに書き留め続け、それを集めて『ヤクルト・スワローズ詩集』として、半ば自費出版の形で刊行したというのである。それは一九八二年のことで、自分が「長篇小説『羊をめぐる冒険』を書き上げる少し前」「いちおう(曲がりなりにも)小説家としてデビューして三年が経過していた」と、作家村上春樹の伝記的クロノロジーの中に具体的な位置付けまで行われている。
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