これらの詩は、野球の観戦を通じて観察し、感じ取ったことを平明な(村上らしい)文体でつづったもので、リチャード・ブローティガンが野球ファンだったらこういったものを書いてもおかしくないと思わせる。村上自身がおそらく若くて暇だったころ、実際に球場の客席でこの種の詩を書き留めていたということは大いにありそうだが、作品として見た場合、「石のまくらに」で引用される短歌と同様に、自立した価値を持つとは言い難く、現代詩作品であることを最初から放棄しているようにも見える。しかしこういう形で小説に収録されて、これは初めて独特の精彩を放つようになる。自伝的な事実に忠実な物語の枠内に収められているので、この『詩集』も実在するものと錯覚しそうだが、たぶんフィクションであろう(もちろん本当のところは、読者にはわからない)。
そして「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」ではすでに紹介したように、架空のレコード評のかなりの部分(あるいは全文かもしれない)が若き日の「僕」が書いたものとして引用されていて、これ自体読ませる見事な評論文になっている。特にレコード評を結ぶ、「コルコヴァド」というジョビンの名曲の共演の描写が素晴らしい。
(……)まるでカーテンの隙間から夕暮れの淡い影が滑り込むように、バードのアルトのあのサウンドが密やかにやってくる。気がついたとき、彼は既にそこにいる。その継ぎ目のない嫋やかなフレーズは、まるであなたの夢の中に潜り込んでくる、名を秘した美しい想いのようだ。ずっとこのまま消えてほしくないとあなたが願うような精妙な風紋を、優しい傷跡としてあなたの心の砂丘に残していく……。
『猫を棄てる』において引用されているのは実在の父の作った実在する俳句であるのに対して、『一人称単数』では架空の語り手(この「僕」が仮構された「僕」であるとして)や架空の登場人物が書いた短歌、詩、批評などが作品の重要な構成要素となり、不思議な呼応関係を形づくっている。このように比べてみると、かたやノンフィクションの回想、かたやフィクションの小説でありながら、似た構造を保ち、ノンフィクションがしばしば物語的な仕掛けを持つのに対して、フィクションがしばしば自伝的性格を担い、あたかも互いに照らし合い、事実と虚構が相互乗り入れをしている。そこでは「私小説」的であるかないかという、因習的な区別はもはやあまり意味を持たない。
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