このように意味論的に説明される概念は――これはロシア人だけのものと考えなくてもいい――村上春樹が『一人称単数』で回想した人生行路の不可解さとよく似ていて、ある意味では村上の「人生観」「歴史観」を説明するものになっているのではないか。様々な偶然の――しばしば説明のつかない、不思議な――出来事が人間には降りかかり、それらの偶然の出来事はいいとか悪いといった次元のことではなく、人間にとってどの程度意味があるのかどうかもわからないが、人間がコントロールできないものとして集積し、人生を形作っていく。その人生行路を支配する、一種超自然的な力があるようにも思われるのだが、それは決して宗教的な意味での「神」によって予め定められたものではなく、あくまでも「偶然」なのである。神話的というよりは経験論的、宿命というよりは存在論的。しかし、生起する偶然が重なることによって、一つ一つの出来事は偶然であるにせよ、その結果形作られる生の軌跡はもはや取り消せない一つの現実となる――おおよそ、こういった人生観を村上春樹は『一人称単数』と『猫を棄てる』で表明している。
そうだとすると、『一人称単数』の最後に置かれた「一人称単数」というタイトルの短篇の意味も理解しやすい。これだけは一人称単数は「僕」ではなく「私」になっており、過去の回想ではなく、「私」が現在遭遇する強烈な違和感を描いていて、明らかにそれ以外の収録作品とは異質になっているのだが、これは「どこかで人生の回路を取り違えてしまった」主人公が、これまでの人生の無数の分岐点のどこかで「違う方向」を選んだ結果迷い込んだ一種のパラレル・ワールドを描いたものとして読むことができるからだ。一人称単数による回想の物語を重ねたあとで、村上春樹は問いかける。「ここにこうして、一人称単数の私として実在する」この私とは、いったい誰なのかと。
これをナラトロジーの次元で問い直せば、読者の目の前にいる一人称単数の「私」というのは、無数の分岐点を経て形成される様々な可能性のうちの一つであって、唯一絶対の現実の「私」を忠実に反映したものではもちろんない。イルメラ・日地谷=キルシュネライト、トミ・スズキ(鈴木登美)などの私小説論が明らかにしているように、じつは「私小説」には定義できる実体はなく、小説に描かれている「私」が事実に基づいたものであるという保証もなければ、検証することもできない。あるのはただ、一人称単数の装いのもとに現出する人物像を好んで作者自身に重ね合わせて読もうとする読書のモードと、読者のそういった反応を見越したうえで、虚構と事実の間で自由に戯れる作家の仮面と素顔の交錯ではないか。村上春樹が熟達した物語作家として魔法の筆を駆使して『一人称単数』で行ったのは、その種の試みのもっとも鮮やかな成果である。年老いた作家が老人によくある「回想モード」に入ったのだと早合点する読者がいるとすれば、それもまた作家の語りの技に掛けられた結果と言うべきだろう。
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偶然に織り成された唯一の「私」――村上春樹『一人称単数』における回想と虚構の交錯(前篇)
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