清少納言や紫式部が生きたのは、四百年ほど続いた平安時代のほぼ真ん中あたり、ときに「王朝時代」とも呼ばれる平安時代中期であるが、それは、かの藤原道長の時代であり、藤原摂関家が最も栄えた時代である。そして、道長といい、その後継者の頼通といい、派手好きで知られた権力者であったから、しばしば「絢爛豪華」という言葉で語られるような煌びやかな貴族文化が花開いたのが、王朝時代=平安時代中期であった。
しかしながら、そんな時代にも、武士たちは確かに存在していた。やがて平安時代の終わりになって「武者の世」を実現する武士たちは、われわれが「貴族の世」と見做す王朝時代にも、既に存在していたのである。
もちろん、平将門のことなら、常識として誰もが知っていよう。王朝時代の早い時期、当時は「坂東」と呼ばれた関東地方で大暴れした将門や彼の朋輩たちは、間違いなく、王朝時代を武士として生きた人々であった。
だが、将門一味の存在などは、実のところ、氷山の一角に過ぎない。藤原摂関家が都で栄華を極めていた王朝時代にも、坂東に限らず、日本のそこここに、どうかすると都にさえ、多くの武士たちが武士として生きていたのである。
鎌倉武士たちの曾祖父の曾祖父たち
平安時代においては、武士を呼ぶにあたって、普通、「武士」という言葉が使われるよりも、「武者」という言葉が使われるものであった。慈円が「武者の世」と言っているのも、そのためである。いや、慈円が当たり前に「武者の世」と言っていることからすれば、鎌倉時代になってからも、しばらくの間は、武士は「武者」と呼ばれるのが当たり前だったのかもしれない。
それはともかく、王朝時代=平安時代中期を武士(武者)として生きた人々は、鎌倉幕府初代将軍の御家人となった武士たちからすると、凡そ、曾祖父の曾祖父にあたるだろうか。一つの世代を三十年ほどと考えれば、そんなところであろう。藤原道長が政権担当者となった長徳元年(九九五)から、鎌倉幕府が成立する建久三年(一一九二)あるいは文治元年(一一八五)までが、だいたい二百年とか百九十年とかいう年数になる。
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