そして、鎌倉武士たちの曾祖父の曾祖父たちは、「貴族の世」であるはずの王朝時代においても、けっして、遠慮がちに世の中の隅っこで縮こまって暮らしていたわけではなかった。彼らは、坂東諸国のような都から遠く離れた国々ではもちろんのこと、山城国・大和国・摂津国・河内国・和泉国・近江国・丹波国など、当時は「畿内近国」と呼ばれた都に近い国々においてさえ、わがもの顔に武力を振るい、脅したり奪ったり殺したりという悪逆非道を繰り広げていたのである。
もちろん、「貴族の世」の武士たちも、たいていの場合、馬に跨り、弓矢を携えていた。したがって、その戦闘力は、彼らの曾孫の曾孫にあたる鎌倉武士たちと何ら変わるところがなかっただろう。しかも、彼らは、しばしば群れを成して行動を起こした。実のところ、平安時代中期においても、「武士団」と呼んでいいような武士たちの集団は、そう珍しいものではなかったのである。いや、むしろ、鎌倉武士たちの曾祖父の曾祖父たちも、武士団として行動することが当たり前だったのかもしれない。
だから、最たる例ともなると、武士団を結成し、矢倉を備えた砦を構えて、そのうえで、大挙して敵の本拠に夜討ちをかけたものであった。しかも、これをやったのは、都から至近の河内国の武士たちである。武士たちの最も武士たちらしい行動が、現代なら「首都圏」と呼ばれるであろう地域において確認されるというのが、「貴族の世」であるはずの王朝時代の一面なのである。
さらに、王朝時代において、武士たちによる血生臭い事件は、都の中でも起きていた。それどころか、どうかすると、都の中は都の中でも、天皇の住まう内裏からそう遠くない大路においてさえ、武士が武力の行使に及ぶこともあった。もしかすると、都の中だけを見ても、武士たちが鎌倉幕府によって統制されるようになる鎌倉時代に比べて、王朝時代の方が、武士たちが野放しになっていたのかもしれない。
また、都や都の周辺がこんな様子なのだから、都から遠い地域ともなると、武士たちが慎ましく生きていたことなど、全く期待できようはずがないだろう。当然、地方の武士たちは、所謂「平将門の乱」の後も、将門が起こしたほどの大事件は起こさないまでも、頻りに武力を振るって武士らしく生きていたのであった。
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