平安時代中期の武士たちの凶行を証言する公文書
とはいえ、『枕草子』や『源氏物語』を産んだ王朝時代=平安時代中期において、地方はもとより都の中や都の周辺でも武士たちが好きに暴れていたなどという話は、にわかには信じ難いかもしれない。
しかし、これは、紛れもない事実である。既に数多くの武士たちが存在していて、その武士たちが地方でも都でも問題を起こしまくっていたというのが、王朝時代の確かな史実であって、われわれ現代人が「貴族の世」と思いがちな時代の一つの側面であった。
そして、鎌倉武士たちの曾祖父の曾祖父たちの暴れっぷりを、確かな史実として現代に伝えてくれるのは、王朝時代当時において検非違使によって処理された数々の公文書である。
検非違使が平安時代の警察であることは、広く知られていよう。そして、警察である以上、検非違使のもとには、さまざまな事件をめぐる訴えが届くことになるわけだが、わが国では、既に平安時代において、そうした訴えは必ず文書にしなければならなかったから、自然、検非違使の手元には、多くの告発状が溜まることになる。特に、検非違使の長であった検非違使別当のもとには、とんでもない数の告発状があったことだろう。書類は下から上へと移動するというのが、今も昔も変わらない官僚機構の基本的なあり方なのだから。
そうしたことから、ある一人の検非違使別当の手を経て、かなりの数の告発状が今に伝わることになる。すなわち、長徳二年(九九六)から長保三年(一〇〇一)まで足かけ六年に渡って検非違使別当を務めた藤原公任が、その任を退いた後、自身が所持していた検非違使関連の公文書について、おそらくはそんなことになるとも知らずに、千年以上もの後の世に残るような措置を取ったのである。
藤原公任といえば、彼の名が出るのは、普通、武士の凶行をめぐってではなく、貴族の芸能や芸術をめぐってであろう。彼は、藤原摂関家の御曹司として生まれ、道長政権の時代に権大納言にまで昇った上級貴族であるとともに、漢詩・和歌・音楽・書などの全てに優れた、王朝時代を代表する文化人なのである。漢詩の名句や和歌の名作を集めて『和漢朗詠集』を編纂したのも、この公任であった。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。