ところで、飛ぶ孔雀、ときいて私たちはちょっとした違和感を覚えはしないだろうか。翼をひろげて空を飛んでいる孔雀の姿はなぜか想像しにくいのだ。孔雀は、三島由紀夫の短篇にしても、フェリーニの映画であれ、飛ぶのではなく、あの大仰で重そうな尾羽根をひろげて、その年のはじめての雪の降りはじめた白い世界にゆっくりと地面を歩いて登場するのではなかったか。もちろん、読む者や見る者の驚き(軽くはないはずのと作者たちは考えている)が期待されているのだが、独特なフワフワさをもつ飾り尾羽根が踊子たちの持つ大きな扇として使われる走る駝鳥ではないのだから、孔雀は飛ぶ。火の燃えがたくなった世界はすでにここにあって、当然、言葉で出来たフィクションの空間を作っているのだから、通常の鳥類のように「飛ぶ孔雀は飾り羽根を畳み、下から茶色の風切り羽根の列をあらわして烈しく飛翔する」一方、歌の翼だけではなく飛ぶ翼を持っているからには、空想の時空に「苛烈な羽音、艶やかな光沢のある青い首を低く伸ばし、闇の奥から不意をついてあらわれる」のだし、いずれにしても(というのは、フェリーニも三島も、という意味だが)孔雀は、そのようにして、祖先は恐竜や蛇と同じ爬虫類だった《歴史的異形》性をあからさまにするのだが、山尾悠子はつい文芸雑誌のSFになじみのない読者を少しばかり小馬鹿にしてか、説明過多気味に「その目は狂気であり凶器、異形の縁取りは血の赤」と書きくわえる。
飛ぶ孔雀という言葉を眼にして私が思い浮かべるのは、つややかな濃紺と輝しいラピスラズリが混り、首のところは薄い忘れなぐさ色と白色になって萼に隠れ枝に生っている茄子である。電車通りから少し離れた庭のない町なかの家の物干し場のプランターに植えた茄子を、つい近くの料亭の庭で飼われている孔雀が飛んできて鋭い嘴で、一口ずつ齧りちらすのだと母親は言っていたし、隣の私より一まわり年上のお姉さんたちの家の小さな庭(ネズミの額ほどの、と彼女は言う)に植えた茄子も被害にあっているのだから、孔雀は茄子が好物なのかもしれない。洗濯物が干され、白いプラスチックのプランターに野菜や花(プチ・トマト、キウリ、白いタマスダレ、都忘れ)を植えたのが置いてある物干し台は、孔雀とはあまりにもミスマッチな感じがするのだが、みがいた宝石のようにつやつやと輝く巨大なバロック真珠の形の細長い茄子は、物干し台が別の世界につながっているのであれば、ラピスラズリの黄金をひそめてぴかぴか光るそれを孔雀は、競争相手の同種の孔雀の首だと思って、噛みちぎったのかもしれない。
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