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深川浅景からコスモスの夢

深川浅景からコスモスの夢

文:金井 美恵子 (作家)

『飛ぶ孔雀』(山尾 悠子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『飛ぶ孔雀』(山尾 悠子)

 だから、どうなのかと問われても答えるつもりはないのだが、たまたま何十年ぶりかに石川淳の随筆(澁澤龍彦編『石川淳随筆集』平凡社ライブラリー)を再読し、石川淳の文章の勢いにのって小説も読みかえすことになって、石川のあの独特な文体にひさびさに触れた眼からすれば、山尾悠子の文体に石川淳的なものの影響はあきらかのことのように思える。すでに触れたように、井上ひさしは内容に渡ってその相似を感じとったらしいのだが、内容ではなく、きっぱりと書くことの恥らいをたちきった文体という形式において――。

 山尾悠子の新しい読者として私は、歌集『角砂糖の日』から

昏れゆく市街に鷹を放たば紅玉の夜の果てまで水脈たちのぼれ

 を引用して、石川の『鷹』の冒頭「ここに切りひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう」と結びつけながら孔雀の空間へと考えていたのだが、『山尾悠子作品集成』の解題に引用されている『夢の棲む街』一九七八年の出版時の書評に、稲垣足穂を連想させるはなやかなイメージだが「語り口は足穂以上に大人っぽく、とても若い女性の作品とは思えないほど堂々としており、皮肉なユーモアとすぐれた観念性は安部公房にも近いものでもある」とあるのを読んで、なぜその先の石川淳までたどりつけないのかと苛立たせられた(若い女性というものに対する、滑稽なコンプレックスまじりとしか思えない思いこみに対して、私は#MeTooなどと言うつもりはない)。

 浅学にして石川淳が鏡花について書いた文章を知らないとは言え、ここでは「コスモス」の花を通して二人の小説家を結びつけたいのである。

 鏡花は「深川浅景」にいまだ大震災被災のあとが残る深川の家々の「野草も生えぬ露出の背戸」の「どの家も、どの家も」花のたしなみがあり「……失礼ながら、欠摺鉢の松葉牡丹、蜜柑箱のコスモスもありそうだが、やがて夏も半ば、秋をかけて、手桶、盥、俎、柄杓の柄にも朝顔の蔓など掛けて、家々の後姿は、花野の帯を白露に織るであろう。」と書く。

 幼い日の浅草かいわいについて書く石川淳は「向島の堤のかなたにちとの畑が残っていて」園というほどの規模ではないが四季おりおりの花木が栽培されているのを見る。西洋種の草花が多く「ダリヤ、パンジイ、薔薇も少少、ネムの木、ゴムの木のたぐい」の中でもっとも目を打ったのは「ポプラの光る木立のはてに、波うって咲きみだれたコスモスの一むらであった。まさに絶景というほかない。」という簡潔な説明につづけてこの文章の、このうえなしに美しい最終部がやって来る。

「わたしは浅草のにぎやかな部分をうろついたあと、ときどきこのコスモスの一むらに来て、疲労も、興奮も、飢渇も、快楽も、ガキにはガキの哀歓も、宝物を埋めるように、あるいはガラクタを燃すように、すべてわたしの『西洋』の中にぶちこんだ。わたしの夢はおそらくそこから芽をふきはじめた。捨子の夢は火の夢である。わたしは『文学』を焼いていたのではないかとおもう。」(『新潮日本文学』33「石川淳集」月報・一九七二年九月)

 ところでこの文章のタイトルは、御想像どおり「コスモスの夢」である。

 深川の蜜柑箱のコスモス(しゃらくさくこれを“秋桜”などと書く連中もいるようだが、鏡花も、カタカナでコスモスである)もなつかしいが、波打って咲きみだれる(おそらくは白とピンクの花のまじった)コスモスに私たちは、はっと胸をつかれる。もちろん、それは宇宙。さらに秩序ある大きな体系――。

 読者はページを前に繰り、山尾悠子のコスモスを、石川淳風用語で言うならば、ただ心して、読むべし。

文春文庫
飛ぶ孔雀
山尾悠子

定価:814円(税込)発売日:2020年11月10日

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